回復の恵み
ルカ15:11-32
イエスが取税人や罪人たちを受け入れられたことを、パリサイ人や律法学者たちが非難したことをきっかけに、主は3つのたとえ話を語られた。100匹の羊のうちの失われた1匹の話、10枚の銀貨のうちの失われた1枚の話、そして2人の息子のうちの失われた1人の話だ。
3つには共通点がある。失われたものへの持ち主の愛と、見出したときの大きな喜びだ。また、羊・銀貨と息子の間に相違点もある。前者はいずれも持ち主が探し出すが、後者は自分から帰ってくることだ。
ここに我らの救いの2面性がある。失われた羊・銀貨・放蕩息子は我らの姿だ。罪を犯した我らは、神の目から失われた存在だ。エデンの園で、神は罪を犯した人間に「あなたは、どこにいるのか」(創3:9)と尋ねられた。神に背いた彼らの魂が、神の前から遠く離れ、失われたのだ。そんな我らを、神は愛をもって、熱心に、執拗に探し出し給う。そのために神は、独り子キリストをこの世に遣わし給うた(1ヨハ4:10)。
しかし、同時に神は待ち給う。羊・銀貨は自分では帰ってこないが、人間は帰って来ることができる。神はそこに期待される。
この放蕩息子の話は、神と我らとの関係を表している。我らは神のものだったのに、罪を犯して、神のもとから離れ去り、その結果確実に滅びる者になった(17節「飢え死にしそうだ」)。御言葉の光に照らされて罪が分かる。分かったら悔い改めへと導かれる(17節「我に返って」は口語訳で「本心に立ちかえって」)。認罪と悔い改めがスタートだ。
罪を悔い改める我らを、神は暖かく迎え給う。決して咎めだてしないで、御子キリストの十字架の贖いを通して赦し給う。父親の言動に我らの救いが表されている。着物は赦罪と義認を、指輪は所有を、くつは主を見上げて従っていく確かな歩みを、祝宴は神との交わり、つまり救われた後の聖い生涯を表す。
放蕩息子は本心に立ちかえった。父はそれを待っていた。神は、我らが本心に立ちかえるのを待ち給う。こちらが主のほうに向こうとするなら、直ちに神は走り寄りたもう。こんな者が神に迎えられるとは、何という恵みか。罪のために死んでいた者が、生かされ、回復される起死回生の恵みだ。
放蕩息子の話には続きがある。兄の姿が25-32節に描かれている。彼は初めから父のもとにいたが、父の思いが理解できない。彼には、弟よりも優れていると思う傲慢と、弟が歓待されたことを喜べない妬みがあり、弟の帰還を喜ぶ愛がない。結局、自分が一番かわいいという自我の姿だ。
しかし、キリストは全き贖いを成し遂げ給うた。我らは、喜ぶ者と一緒に喜ぶことができない古き人を十字架につけ、キリストに内住していただいて、心の底から神の恵みを共に喜ぶことができる者になる。起死回生の恵みはそこにこそ表れる。神の前に本来あるべき立場を得るのだ。こんな者が回復されるとは、何という恵みか。
神の前に魂が全く回復された者にしていただこう。こちらが信じて従うなら、主はいつでも与え給う。