神の知恵たる十字架
Ⅰコリント1:18-31
ローマ領アカヤ地方(現ギリシャ)の首都コリントは、繁栄したが、同時に道徳が退廃していた。そこに、パウロの忍耐強い宣教によって建てられた教会があった。しかし、世の堕落ぶりは教会にも影響を及ぼし、様々な問題が噴き出していた。そういうコリント教会員に、パウロはもう一度キリストの福音の深さを語った。
18節以下に神の知恵と人の知恵が対比されている。コリントの町は、知恵を重要視するギリシャ文明の影響を受けていた(22節)。人間の理性によって判断する哲学者、言い伝えによって判断する律法学者、議論家(20節)にとって、キリストの十字架は愚かに見えた。
数々の奇跡を行われたのに、十字架上で全く無力だったキリストが救い主とは、確かに非合理的だ。しかし、十字架のキリストこそ神の知恵だった。なぜなら、その死は贖いの死だったからだ。
無力に見える十字架こそ、我らの救いのために神が現し給うた神の知恵だ。この神の知恵が、我らの知恵になる(30節)。十字架に現された神の恵みが、我らのものになる。キリストは我らの義と聖めと贖いとになられたのだ。
1.キリストは義となられた
我らに救いの恵みを与えるお方になられた。我らが選ばれたのは、実に不思議だ(26-28節)。学問、権力、地位のない、無に等しい我らが、世の基の置かざりし先より(エペ1:4文語訳)あえて選ばれた(28節口語訳)。
無に等しい者とは、選ばれる理由のない罪人ということだ。救いは認罪から始まる。罪しか犯さなかった我らが、赦罪と義認をもって選ばれた。認罪-悔い改め-十字架信仰という手順を踏んで、赦罪-義認-神との和解-新生の救いが与えられた。そもそも神特有のものである義が、我らのものになるのは、罪なきお方が罰せられ給うたからだ。それはいかに大きな恵みか。
2.キリストは聖めとなられた
我らに聖潔(きよめ)の恵みを与えるお方になられた。救われたのになお罪を犯す、神に喜ばれない…という自分に気がついた魂を、神は聖潔の恵みに導かれる。自らの汚れた姿を徹底的に見せつけられ、絶望して、そこから十字架を見上げ、古き人が十字架につけられていると決算して、待ち望むなら、内にキリストが来てくださる(ガラ2:20)。そして、そこから、絶えず御心にのみ従うことを喜ぶ歩みを始めることができる(詩40:8、ヨハ5:19、ヨハ8:29)。
3.キリストは贖いとなられた
主は、我らを栄化の望みに輝かせるお方だ。主は再臨し給う。そのとき我らは主と同じ栄光の姿に変えられる。この卑しい体が贖われるのだ。これは、義とされ、聖とされた者に与えられる希望だ。
義認・聖化・栄化、これがキリストの救い、全き救いだ。この恵みにあずかることができるのは、知恵も権力も地位もない、無に等しい者、つまり徹底的にへりくだった者だ。
こんな私が、義とされ、聖められ、栄光の望みに生かされるとは、これこそキリストの十字架の力だ。無力と思われた十字架が、神の力なのだ。罪のために滅ぶべき、無に等しい我らが、ここまでされる。これが神の知恵であり、神の選びの不思議だ。
十字架のことばは神の力だ。我らを全く救う神の力だ。いかなる困難のとき、絶望的な状況の中でも、十字架の主を仰いで進む者に力が現される。十字架の主に信頼する者は、決して失望に終わらない(1ペテ2:6)。