新しい契約の民
エレミヤ31:23-40
エレミヤの時代はイスラエルの歴史上、最暗黒だった。北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前586年に新バビロニア帝国により滅亡し、エルサレム市民はバビロン捕囚となった。祭司の子エレミヤは、主の召しを受けて(1章)預言者となり、捕囚前から捕囚中に及んで活動した。彼は捕囚の民と共にバビロンに下り、民の罪を指摘し、悔い改めを迫り、また回復を預言した。彼のストレートな預言は民に受け入れられず、かえって迫害された。しかし、彼は涙を流しながらも、神の言葉を語り続けた。
26章からはおもに回復のメッセージが語られている。とくに31章は、偶像礼拝の罪のために、神の裁きとして捕囚の憂き目にあっている民に、神の永遠の愛と誠実が示され(3節)、31-34節には新しい契約が表されている。ここに示された新契約は、出エジプトの時に与えられた古い契約(十戒)のようなものではない(32節)。イスラエルの民のために与えられた古い契約は、民自らの手によって破られた。もはや彼らは滅びるしかない。
しかし、真実な神は、彼らが滅びるのを手をこまねいて見ていることはできなかった。神を捨てた報いとして捕囚の辛酸をなめなければならなかったが、その苦難のただ中で、神はエレミヤを通して彼らに新契約を提示された。それは、神の律法を彼らの心に書き記し、神が彼らの神に、彼らが神の民になるというものだった(33節)。
旧契約では律法は石の板に刻まれたが、新契約では民の心に刻まれるという。これは驚くべき新約の恵みの予表だ。これこそ、キリストが我が内に住まわれるという聖潔の恵みだ。
我らは、神の前に一人残らず罪人だ。神の律法を行うことができず、滅ぶべき者だ。しかし愛なる神は、そんな我らを憐れまれ、独り子キリストをこの世に送り、十字架におかけになった。罪なき神の子キリストは、我らの身代わりに十字架で血を流して死なれた。我らが罪を悔い改め、十字架を信じれば、すべての罪から救われる。まずこの罪の赦しの救いをいただきたい。
明確に罪が赦された魂は、み言葉の真に真剣に出て行くなら、必ずやがて自己の真相に直面する。救われたのにまだ人を愛せない、赦せない、いつも人の目を気にし、人の顔色を伺いながらの歩みだ。そういう不真実な己の姿に気がついたらしめたものだ。そこからみ言葉の光に従っていくなら、必ず十字架のさらに深い意味に開かれる。古き人がキリストと共につけられているという十字架が示され、なお待ち望むなら、キリストが我が内に住まわれるという恵みを、信仰によって受け取るのだ(ガラ2:20)。この恵みをいただいた時、我らは真の意味で神の民になる。これが、我らのために備えられている新契約だ。
神の民とされたらどうなるか。主を知る者になる(34)。主の御心を深く知り、自分の心にする者になるのだ。主の御心とは、父なる神への徹底的な従順であり(ピリ2:5-8)、すべての者が救われてほしいとの救霊愛(2テモ2:4、2ペテ3:9)だ。
我らは、新しい契約の民として贖われている。キリストはそのために血を流された。意志を働かせて御言葉に従い、信仰をもってこの恵みを自分のものにしたい。