天幕の場所を広げよ
イザヤ54:1-8
新年のみ言葉は2節「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」だ。
イザヤが預言活動をした前740年ごろから50年間、アッシリヤが中東諸国を支配する中で、小国ユダは一応安泰だった。しかしバアル信仰が浸透し、預言者たちは堕落し、道徳的標準は低下し、飽食と不節制が蔓延した。神殿での礼拝は形式化し、祭司は命のない礼拝を繰り返した。そのような決して容易ならぬ国情において、イザヤは預言者として召された(6章)。
本書の前半(1-39章)にはおもに裁きのメッセージが、後半(40-66章)には回復のメッセージが述べられている。神は堕落したユダを見逃さず、厳しく断罪し給う。バビロン捕囚の予告をされるのだ。しかし憐れみ深い神は、必ず回復すると約束し給う。
「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え…」(1節)は、罪のために神に裁かれ、神の祝福を失ったエルサレムを、神が豊かに赦し回するという約束のみ言葉だ。我らも信仰によるイスラエル、エルサレムの子どもだ。キリストの十字架の血によって贖われた霊的イスラエルだ。先には神の祝福から遠い者だった(エペ2:11,12)。しかし、キリストの血によって近い者にされた(エペ2:13)。
そして2節の言葉がある。神の励ましだ。天幕の場所を広げること、住まいの幕を張り伸ばすこと、綱を長くすること、鉄のくいを強固にすることは、すべて場所的なことではなく霊的なこと、信仰のことだ。信仰は広く、大きく張り広げ、高く、深くすべきだ。低い所、浅い所に安住してはならない。なぜなら、全能の神は大いなるみわざをなそうとしておられるからだ。停滞は後退だ。前進あるのみだ。自分の力によるのではない。主がなし給う。こちらは渇いて従っていくだけだ。
「あなたは右と左にふえ広がり…」(3節)は、神がこれからなそうとしておられるリバイバルの預言だ。数的増加だけでなく、質的深化であり、個人的だけでなく、教会全体の刷新だ。
「恐れるな。あなたは恥を見ない…」(4節)と主は言われる。我らは、救われたのにまた罪を犯したり、まだ神に喜ばれていなかったりするため、このままでは御前に立てない、裁かれてしまう、という恐れにさいなまれる。しかし神は、十字架の血の功のゆえに、十字架で成し遂げられた全き救いを与えて、我らを回復し給う。信仰が未熟で、自我に支配されていた頃の神の前の恥を、取り除いて忘れさせ給う。神の御心から離れて、肉の命じるままに生きていた頃の誹りを、十字架による全き救いをもって記憶から消し去り給う。
我らを創造し給うた主は、夫として我らを愛し、守り、戦いに勝ち給う(5節)。主は聖なる方であるがゆえに、我らを全く贖い、我らをも聖なる者になし給う(1ペテ1:16)。
「若い時の妻をどうして見捨てられようか」(6節)は、見のがせない一句だ。神は我らを見捨て給わない。いや、見捨てることができないのだ。そのために御子を捨て給うた。我らを拾うためだ。これが神の永遠の愛だ(8節、エレ31:3)。神の愛は制限がない愛、条件をつけない愛、変質しない愛、減少も消滅もしない愛だ。それがイエスの十字架に現された(ヨハ3:16、ロマ5:8、1ヨハ4:10)。
この神の愛に対してどう応えようか。最大の愛をもって応えよう。そのためには、天幕の場所を広げよう。住まいの幕を惜しみなく張り伸ばそう。綱を長くし、鉄のくいを強固にしよう。信仰の天幕を張り広げるのが、神の愛への我らの応答ではないか。