クリスマスのしるし
ルカ2:1-20
ローマ皇帝から国勢調査の勅令が出され、ヨセフも登録するためにマリヤと共に出身地ベツレヘムに帰ったが、滞在中にマリヤは出産の日を迎えた。宿は満員で、彼らのいる場所はなかった(7節)。「客間には彼らのいる余地がなかった」という口語訳は、我らの心を探る。イエスは家畜小屋で生まれ、布にくるまれて飼葉桶に寝かされた。何と貧しい誕生か。
郊外で野宿をしていた羊飼いらに、御使いがメッセージをもたらした(10節)。そのメッセージは、①「恐れることはありません」。神は、恐れやすい我らにいつもこの慰めの言葉をかけ給う。
②「この民全体のためのすばらしい喜び」。一部の特権階級、ひと握りの上流階層のための喜びではない。貧しい、無名の、軽蔑された羊飼いにまず知らされたのだから、万民のための喜びだ。③「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主が…」。救い主が与えられたことが喜びだ。「あなたがたのために」だから、万民へのプレゼントだ。
④「布にくるまって飼葉おけに寝ておられる…」。しるしとは目印程度ではない。羽根布団の赤ん坊では駄目だった。布にくるまり飼葉桶に寝かされている赤ん坊でなければならなかった。
神の御子であり、神ご自身であられたキリスト(ヨハ1:1、10:30、14:9)は、神の栄光を捨て、貧しくなって下り、幼な子として誕生された(ヨハ1:14)。永遠の初めから在し給うた神が、我らのただ中に住まわれた。主は人間としての弱さを身にまとわれた。肉体をとられた人間イエスの歩みは、飼葉桶から始まったのだ。
主が人となられたという受肉には深い意味がある。「あなたは…わたしのために、からだを造ってくださいました。」(ヘブ10:5)の出典は「汝わが耳を開き給へり」(詩40:6文)だ。旧約時代、贖いの年に主人に忠実たらんとする奴隷は、キリで戸板に耳を刺し通され(出21:6)、従順のしるしとした。
それは他ならぬ主のお姿だ。主は、ただみ心に従って、神の栄光を捨てて人間の姿になり、十字架のどん底まで下られた(ピリ2:6-8)。肉体を備えられたとは、ただ人間になられただけではなく、従順な僕になられたということだ。その最初の現れが飼葉桶だった。「あなたがたのためのしるし」とは従順のしるしだ。
羊飼いらはベツレヘムに急いだ(15,16節)。一刻も早く喜びの知らせを確かめようとしたのだ。そして、告げられた事が事実であることを確認し、神を賛美して帰途についた。
キリストは我らに与えられた大きな喜びだ。我らは救われなければならない存在、罪のために滅びゆく者だ(ロマ3:10)。み言葉の光に照らされて初めて自分の罪がわかり、私のために罪なき御方が十字架にかかられたと信じるなら、神の恵みと主の血潮のゆえにそのままで罪赦され、神の子どもにされる。
さらに、み言葉に探られて自分の内在の罪がわかり、意志と信仰をもって十字架につけるなら、キリスト内住の恵みをいただくことができる。そして、そこからキリストのごとく神のみ心への従順な歩みが始まる。これが我らに約束された大きな喜びだ。
この喜びは我らのため、私のためだ。あなたにキリストを迎える余地があるか。自分の当面のことで頭が一杯になっていないか。主を締め出してはいないか。おいで下さいと素直に謙虚に主を迎えよう。私への大きな喜びだ。私を救い、きよめるために来られたイエスを信じよう。