礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2014.11.02

我らに祭壇あり

ヘブル13:1-17

本書は、キリストの贖いの優位性、贖いの深さを説いて、我らに慰めと励ましを与える書だ。「我らには一つの祭壇があります」(10節)と言うが、祭壇とは偶像の祭壇ではなく、キリストの十字架だ。旧約時代、幕屋には祭壇があり、そこに犠牲の血が注がれ、犠牲の体が焼かれ、贖いの儀式がなされた。

しかし、人間の祭司の贖いは不完全で、罪を完全に取り除けなかった。そこでキリストがこの世に送られた。キリストは十字架にかかって永遠の贖いを成し遂げられた(9:12,14、10:14)。キリストは永遠に変わらない御方であり(8節)、我らに対していつも真実で、その贖いも不変だ。

ただし、イエスに目を留めていなければ惑わされる(9節)。食物に限らず、富や知識や名誉など、世に属するものに惑わされる。それらは魂の益にはならない。我らの心を真に強くするのは恵みだ。永遠の贖いの恵みによって我らは魂が養われる。「我らに祭壇あり」と言う祭壇とは、永遠の贖いが成し遂げられたキリストの十字架だ。我らが目を留めるべきは、このただ一つの祭壇だ。

祭壇に献げられた犠牲の血は、幕屋の中へ携えられたが、体は宿営の外へ出された(出29:10-14)。これはイエスの受難を表す。主は都の外で苦難を受けられた(12節)。我らの王は都の外で十字架にかかられたのだ。そのお誕生のとき、客間には余地がなかった。死なれるときも宿営の外だった。我らは主を受け入れなかったのだ(ヨハ1:11)。

外に捨てられるべきは、罪人の我らだった。しかし、我らのために永遠の贖いを成し遂げるために、神の子キリストが宿営の外で捨てられ給うた。主がまず我らのために宿営の外へ出られたのだから、我らも宿営の外へ行きたい(13節)。居心地の良い所に安住せず、喜んで主のための苦難を身に負う者になりたい。

「永遠の都」「後に来ようとしている都」(14節)とは、信仰の勇者たちが望んでいたものだ(11:16)。それは、世に属するものからは得られないけれども、この世にあって得られる恵みだ。地上の歩みを営みながら、魂は天の所に移されている生涯を送ることができるのだ。「天の処に座せしめ給えり」(エペ2:6文)の恵み、キリスト内住の恵みのことだ。これこそ我らが熱心に真剣に求めるべきものだ。なぜなら、地上の生涯の期間は限られているからだ。

我らがいつまで肉の生涯を続けるか、どれだけ天の所に移された勝利の信仰生涯を歩むかは、どれだけ自己の真相と向き合ったかによる。絶望が深ければ深いほど、激しく渇く。全き贖いを求めていこう。

これほどの深い贖いが与えられたら、与え主なる神への賛美が生まれる(15節)。贖いの目的は、我らが主をほめたたえることだ(エペ1:6,12,14)。

指導者たちの言うことを聞き従って(17節)、恵みを求めていこう。

我らに祭壇あり。十字架の贖いを感謝しよう。永遠の都を我がものにしたい。地上のものに心を引かれて約束を無にしないように心したい。為し給う主を信じて、真剣に求めよう。

あなたは祭壇を持っているか。あなたのうちに一つの祭壇が据えられているか。十字架信仰が貫かれているか。主の前に出て探っていただこう。