大いなるリバイバルの幻
エゼキエル37:1-14
イスラエルは背信の罪のために、裁きとして異国の地バビロンに捕囚となった。しかし、神の憐れみにより、エレミヤを通して新しい契約が示された(エレ31:31-33)。主がペルシャ王クロスの心を動かされて、民は70年の後に解放された。
本書も回復のメッセージだ。特に33章以下にリバイバルの預言が語られている。エゼキエルは、捕囚の民をみ言葉をもって激励した。彼は本章で枯骨(ここつ)の谷の幻を見せられている。
彼は、聖霊に満たされて、主のもとから出て行って幻を見た(1節)。聖霊の恵みをいただいて、初めて主のもとから遣わされることができる。
彼は、谷に満ちるほどのおびただしい、いのちのない、枯れた古い骨の幻を見た。これは、捕囚のために魂が渇き、枯れ果てたイスラエルの全家の姿だ(11節)。そして、罪を犯して滅びゆく者になり果てた我らの姿でもある。
主はエゼキエルに、これらの骨が生き返ることができるかと問われた(3節)。主の熱い思い、主の呻きだ。主は彼に、骨に預言するよう命じられた(4節)。枯れ骨にメッセージを語れと言われるのだ。いのちのみ言葉には枯れ骨を生かす力がある。
エゼキエルは命令どおり、枯れ骨に預言した。彼は信じて従ったのだ。そこに神の業が現わされた。骨と骨がつながり、筋、肉、皮膚(ひふ)が生じ、人間になったのだ。み言葉は、干からびた骨をつながらせ、筋、肉、皮膚を与えて生かす力がある。
けれども、まだ息がなかった(8節)。生きた人間になったが、まだ活発に自由に動けないのだ。再び、息に預言せよと命令が下った(9節)。神の霊にメッセージを語れという驚くべき命令だ。
やはりエゼキエルは従った。彼が息に預言すると、生きた人間に息が入り、立ち上がり、大いなる集団になった。ただの群衆ではなく、神のためにいのちをかけて戦う主の精兵になったのだ。
この記事から、第一に贖いの二重性を教えられる。骨が人間になるとは、救いの恵みを表す。罪を犯したままの魂は、干からびた骨のようなものだ。しかしみ言葉(=十字架の言葉)によって魂は罪から解放され、救われ、人間になる。
しかし、まだ真のいのちがない。自分のためには働くことができても、主のために喜んで働けない。そんな自我の塊のような魂も、神の息が吹き入れられて、初めて大いなる集団になる。自我が十字架で始末され、キリスト内住の恵みをいただいて、生きた精兵になる。
「誰かその生命をかけて我に近づくものあらんや」(エレ30:21文)と主は言われる。主が我らをそのようになし給う。これは主の約束だ。自分が枯れ骨だ、いのちのない者だと認めて主の前へ出て行こう。
第二に我らの使命を教えられる。我らは、枯れ骨を見ることができるか。魂への重荷があるか。主は我らに預言せよ、メッセージを伝えよと言われる。
現状はどうであれ、主を信じ、み言葉の真実を信じよう。み言葉には魂を救う力がある(ヤコ1:21)。十字架の言葉の力によって、魂は息を吹き返す。教会から一歩出れば、そこが枯骨の谷だ。重荷をもって出て行かせていただきたい。
神のメッセージに耳を傾けよう。イエスはよく「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。聞く耳を持たない者、聞き流す者にならないで、自分に対するメッセージとして聞くことができる魂になりたい。