主イエスのとりなし
ヨハネ17:1-26
十字架前夜の、主イエスの最後の公の祈りだ。主は大祭司として弟子たちのために祈られた。6節以下で、主は弟子たちのための5つの祈りを捧げられる。
1.彼らをお守りくださいとの祈り(11節)
ご自分は世を去られるが、弟子たちは、救い主を受け入れずに(1:9,10)、光よりも闇を愛した世(3:19,20)に残される。主は、狼の群れのようなこの世に残される弱い彼らが、守られることを求めずにはおれなかった。しかも、彼らを世から取り去るのではなく、証人として世に遣わしたいと思われた。イエスはこの世のものではなく、神から遣わされて来られたお方だ。主に選ばれた弟子たちもこの世のものではなく(14節)、世に遣わされた者だ。世から逃げる者ではなく、世に向かっていく者だ。だからこそ保護が必要なのだ。
主は我らの救いのために世に遣わされ、十字架の血による贖いを成し遂げられた。贖われた我らは、もはやこの世のものではなく、この世に遣わされている。世に証し人として向かっていくためだ。そのために、主は守り給えと祈り給う。
2.彼らを聖め別ってくださいとの祈り(17節)
彼らは弟子として選び別たれた。初めから弟子にふさわしい者だったのではなく(イザ51:1)、神の憐れみによって召されたのだ。彼らはすでに召されていたが、肉の人だったから、主は彼らが聖め別たれることを求められた。主は我らが全く聖められるように、と祈り給う。我らが古き人を十字架につけ、キリストの内住をいただいて、主のために生きる者になるようにと祈り給う。
それは、我らが、邪悪で曲がったこの世に遣わされるためだ。我らはこの世のものではないが、この世に生かされている。聖め別たれていないと、飲み込まれる。しかし聖め別たれ、内住のキリストをいただいていれば、恵みによって勝利することが出来る(16:33)。
3.彼らを一つとならせてくださいとの祈り(21節)
主は、弟子たちだけでなく、すべてのクリスチャンのためにも、一つとなるようにと祈られる(20節)。主は、やがて来るべき迫害の時代を見越しておられた。その最善の対策は教会の一致だ。サタンのもくろみは一致の妨害だ。狼は囲いの羊には手が出せないが、バラバラであるなら襲撃は簡単だ。信仰の一致を保ちたい。単なる協力体制ではない。同じ心で同じ恵みを求めていくのだ。
4.彼らをいっしょにおらせてくださいとの祈り(24節a)
これが祈りの中心だ。保護も聖別も一致もここに帰する。「わたしといっしょに」と言われる。主の臨在と共ならせ給えと祈られるのだ。
主が我らと共に、我らの内におられる。それは、我らが主のおられる所、天の処(エペ2:6)におらせていただくということだ。内住の主を仰ぎつつ、この世にあって御国の歩みをさせていただくのだ。
5.彼らに栄光を見させてくださいとの祈り(24節b)
栄光とは、世の初めから主が持っておられた栄光であり、やがて我らに現されるべき栄光だ。この肉体は朽ちても、魂は永遠であり、主と同じ姿に変えられる。義とされ聖とされた魂には、いつでも主の前に立てる栄光が約束されている。
贖われた者は、世に生かされているが、世のものではない。その我らのために、主はこれだけの祈りを捧げ給う。我らはこの大祭司の祈りに支えられているのだ。我らの大祭司イエスは、我らのためにこのように祈り給う御方だ。ハレルヤ。