礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2014.09.21

我らが義と認められるために

ローマ4:1-5:1

本書は難解と言われるが、恵みにあふれた書だ。1章で異邦人の罪、2章でユダヤ人の罪が指摘され、3章で全人類が定罪されている(3:10,20,23)。

最初の人アダムは、神のかたちに創造されたのに、御言葉に背いて神から断絶された。これは罪に定められた我らの姿だ。我らは例外なく滅びゆく者になった。

しかし、神は我らを見捨てず、キリストの十字架による救いを示された。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らの罪のためだった。これによって我らは、神の恵みにより、価なしに、罪と滅びから救われた(3:24)。

救われたとは、過去の一切の罪が赦されたことだ。4章7,8節は、ダビデの体験から来た言葉だ。彼は恐ろしい罪を犯したが、預言者ナタンに指摘されて、ただちに悔い改め、神から即座の赦しをいただいた。

罪の悔い改めと十字架への信仰によって、我らにも赦罪が与えられ、さらに一度も罪を犯さなかった者と認められる。これが義認だ(2コリ5:21)。

信仰義認の良き例がアブラハムだ。(3節,創15:6)。彼は神の全能の力を信じた(17,18節)。この信仰を神は喜び、彼の義と認め給うた。これは彼の無割礼の時だった。つまり、彼の義認は、行いによらず、信仰によったのだ。信仰による義認だ。彼は、このために世界の相続人となるとの約束が与えられた。

我らにもこの約束が与えられている(23,24節)。神の国を受け継ぐ約束、天の資産を相続する約束が、信仰によって義とされた者に与えられるのだ。罪を認め、悔い改め、十字架を信じて、罪を赦され、義とされた者に、神の全財産を相続する特権が与えられる。

キリストの死とよみがえりのゆえに、それを信じる信仰によって、我らに義認の恵みが与えられ(25節)、神との和解が与えられる(5:1)。アダム以来神に敵対していた我らが、ここで神との和解をいただくのだ。

義認は救いの土台であり、ここからがスタートだ。これは、生き死にに関わる重大事だから、あいまいにしてはならない。今さらと思わないで、神の前に出て、まず救いの確信をいただきたい。雨戸の最初の一枚がきちっと入っているか点検しよう。

5章3-11節には、クリスチャンの雄々しい歩み、喜びに満たされた生涯が描かれている。患難さえも喜んでいると言う。しかし、現実の自分はどうかと省みるなら、喜びや満足や平安がない状態ではなかろうか。好調なときは良いが、逆風になると、不平や不満や愚痴(ぐち)がこぼれてこないだろうか。何と理想とほど遠いかと思う。

しかし、ここに示されている歩みは、単なる理想ではない。こう歩むはずだという標準であり、こう歩むことができるという約束だ。古き人が十字架で始末され、キリストに内住された者の歩む姿だ。

神はかく成し給う。神の力を信じ、渇いて求めるなら、そうなる。信仰による義人は生きる。すべて信仰による。

再び律法の縄目に縛られてはならない。律法主義に陥ってはならない。キリストの十字架によって、信仰による新しい道が開かれたのだから、恵みを無にしないようにしたい。

自分は義と認められたかどうか、点検しよう。ここがはっきりしなければ、先には進めない。主の前に出よう。主は悔いし砕けし魂を軽しめ給わない。