鷲のように翼をかって
イザヤ40:21-31
イザヤ書40章は、回復のメッセージの始まりだ。“力付ける、内から強くされる“という意味の言葉「慰めよ」(1節)で始まる。イスラエルは、南北朝に分裂しており、北はアッシリヤ、南はバビロンにより滅亡する。ユダの民は70年間の捕囚生活を強いられる。不信仰、背信の罪の報いだ。惨めで屈辱的な捕囚生活の中で、彼らは自分たちの罪を認め、悔い改めた。神は彼らを決して見捨てず、回復の預言を与えられる。弱り果てた魂に励ましを与えられるのだ。
イスラエルの民への慰め、激励の中に、神の3つの姿がある。①変わらない神。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と、み言葉の不変性が述べられる。神の約束は不変だ。力を与えられるのは変わらないみ言葉による。
②導き給う神。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(11節)。イスラエルの民を、小羊の血をもって出エジプトさせ給うた神は、今も我らをキリストの十字架の血をもって導いてくださる。
③創造の神。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)。天地万物を創造し、人を創造された神だから、我らに力を与えてくださる。そして、不信仰のために堕落したイスラエルをもう一度造り直してくださる。
我らも、神によってもう一度造り変えていただくことができる。我らは神により創造された。しかし罪を犯し、神から離反し、死ぬべき者になった。そんな我らのために、神は救いの手立てを講じられた。御子キリストを世に遣わし、罪なき神の子を十字架につけ給うた。罰せられるべき我らが罰せられないために、罰せられるはずのない神の子が罰を受けられたのだ。
我らが自分の罪を悔い改め、十字架を信じれば、罪の赦しが与えられ、我らは新たに生まれ、新しい命を持つ者になる。
さらに十字架にはもう一つの意味がある。自分も共に付けられている十字架だ。救いをいただいた者は、やがて醜い己の姿が見えてくる。神に喜ばれていない自分、何でも従いますと言えない自分、そう言いながら従っていない肉の姿だ。些細な事でいら立ち、ふくれる、なんとも情け無い自分だ。なぜこうなのか。仕方がないのか。未熟だからか。いや、自我のためだ。過去の罪は赦されたが、なお自我が残るからだ。
その自我がのさばったままでは、神に喜ばれる歩みができない。このままでは嫌だと心から思うなら、十字架のもとへ行くのだ。「我キリストと共に十字架につけられたり」(ガラ2:20a文語)と、意志と信仰をもって古き人を十字架につけるなら、「キリストわが内にありて生くるなり」(同b)と、内住のキリストをいただくことができる。この内住のキリストによって、心の深みまで造り変えられる。新創造だ。
「主を待ち望む者」(31節)とは、待ち望んで主を内にいただいた者のことだ。「新しく力を得」て、今までは従えなかった者が、どんなことに関しても主に従う者に、今までは自分しか愛せなかった者が、主と人を愛する者に、今までは臆して証しできなかった者が、大胆に証しをする者に、新しく造り変えられるのだ。
我らは、肉体的には弱ることはあっても、内側は、弱らずたゆまない主によって強められる(28節、ピリ4:13)。新たな力の秘訣はこれだ。
主を待ち望もう。十字架を仰ごう。主は約束を果たしてくださる。我らに与えられている約束は、変わることはない。