キリストの身の丈まで
エペソ4:1-16
子どもの成長を見るのは楽しい。寝ているだけの赤ん坊が、やがてお座りをし、這(は)い這いし、立ち上がり、ついに歩き出す。教会の成長の過程も同様だ。本書に教会の姿がある。
教会(=クリスチャン)が歩くことができるのは、まず座してからだ(2:6)。座したら、座り込むのではなく、立って歩み出す(4-6章)。歩み出したら、その後は、敵であるサタンとの壮絶な戦いがある(6:10-)。
13節に「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」とある。子どもは大人になるまで成長し続ける。背たけも親に追いつき、追い越す。私たちも主イエスの身のたけにまで達することができる。
キリストの身のたけとは何か。詳訳聖書では「キリストご自身の完全という標準の高さより下に下がらない人格の完全性」とあることから、キリストの身のたけの寸法とは、主の完全性だということがわかる。主の完全は、神のみ旨への従順という点において最もよく表れた。
イエスは神の御子であられた。永遠の初めから神と共におられ、神ご自身であられた(ヨハ1:1,14:9-10)。主は父のみ旨に基づいて来臨された。そして終生み心だけを求め、従い通された。
イエスは本質的な弱さ(エッセンシャル・ウィークネス)を持っておられ(ヨハ5:19)、かつ父なる神への絶対的信頼を持っておられた(ヨハ8:29)。主が父にこれほどの信頼を持つことがおできになったのは、み心にのみ従われたからだ。
イエスはついに十字架にかかられた。これもみ旨への従順の結果だ(ピリ2:6-8)。主は、当時のユダヤの指導者たちの妬みのために殺されたが、実は自ら進んで十字架につかれたのだ。それは、父に徹底して従われた末のことで、この主の従順のゆえに、私たちは救われたのだ。
父のみ旨への従順こそ、主の内に満ち満ちた身の丈(たけ)だった。私たちが、罪のために死んだ状態の中から生かされ、よみがえらされ、天の処(ところ)に座せしめられるのは、このキリストの身のたけに達するためだ。
何と高い、深い、豊かな贖いか。贖われたことを軽く見てはならない。キリストの贖いを低く見積ってはならない。また、自分にはとても無理と思ってはならない。もちろん自分では不可能だ。だから、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し」(13節)とある。主が成し給うと信じる信仰と、主を内にいただく体験的知識によって、可能なのだ。
古き人を脱ぎ捨て、新しき人を着て、心の深みまで新創造されて(22-23節)、キリストの身の丈を目指したい。主が徹底的にみ旨に従順であられたように、私たちも従順に従う魂とされたい。これがクリスチャンの標準であり、教会のあるべき姿だ。
最後に、見逃せない言葉がある。「愛をもって真理を語り」(15節)、と「愛のうちに建てられるのです」(16節)だ。クリスチャンは愛をもって語る者であり、教会は愛のうちに建て上げられるものだ。愛のないところに成長はない。なぜなら、クリスチャンは神の愛を知った者、教会は神の愛が注がれて礎が据えられたものだからだ。
神は、御子を十字架に献げ給うほど我らを愛し給うた。また神は、ご自身の血で贖い取られたほど教会を愛し給うた(使徒20:28)。神の愛に基づいた、成長したクリスチャン、また教会にならせていただきたい。