血による新しい契約
ルカ22:14~23
十字架前夜、主イエスは弟子たちと最後の時を過ごされた。主は、弟子たちとの最後の過越の食事を切望された(15節)。それは、彼らにこの食事の持つ重要な意味を知らせたいためだ。
主はパンを取り、裂いて、ご自分のからだだと言われた(19節)。裂かれたパンは、十字架で裂かれるご自身のからだを意味していた。主は、背中を鞭打たれ、手足に釘を打ち込まれ、文字通り肉体を裂き給うた。
また杯を取り、ご自分の血による新しい契約だと言われた(20節)。主は十字架で血潮を流された。裂かれたからだ、流された血は何を意味したか。
主が弟子たちと取られた過越の食事(7,8節)は、出エジプトを記念するものだった(出12:)。あの時、一家に一頭、傷なき雄の小羊がほふられた。肉が焼いて食せられ、血が入口に塗られた。主の使いはその血を見て過ぎ越した。エジプト人は裁かれ、イスラエル人は救い出された。
主が過越の小羊になられた。私たちを罪の奴隷状態から解放し、滅びから救い出すためだ。主が十字架にかかられたのが過越の祭の時だったのは、摂理だった。主が私たちのための過越の小羊となるためだ。
ここに新しい契約が成立した。小羊の血による旧契約ではなく、主の血による新契約だ。
第一に、罪の赦しを与える契約だ。主は、私たちが過去に犯した一切の罪過を十字架で精算し給うた。払い切れない罪の負債を、主が肩代わりし給うた。私たちはすでに負債が支払い済みとなった。これが義認の恵みだ。
第二に、聖潔(きよめ)の恵みまで与える契約だ。明確に救われた魂は、やがて内心の罪に気がつく。妬み、憎しみ、怒り、自己中心などの内なる汚れに悩む。そのままでは主の前に立てない。
しかし、キリストは十字架で贖いを完成し給うた。私たちが、神に喜ばれない古き人を十字架に付けるなら、キリストが内住し給う恵みを、信仰によっていただくことができる。主の血は、この私たちに対してそこまで為す。
第三に、栄化の望みに輝かせる契約だ。聖くされた魂に、再臨の日に主と同じ栄光のからだに化せられる希望がはっきりと与えられる(ガラ4:19、ロマ8:29)。
これが血による新しい契約だ。実はこの新契約は、旧約にすでに予告されていた(エレ31:31-34)。キリストの十字架による全き救いの預言だ。それが実際に自分のものになるのは、十字架以後だった。主は、この奥義を知らせようとして、食事を切望されたのだ。弟子たちが、十字架の意味を深く知り、恵みを得るようにと願われた。
主は、私たちがこの奥義を知ること、恵みをいただくことを切望し給う。これを私たちの切望にしよう。罪の赦しの救いをいただき、さらに聖潔を求めよう。新しい契約に入れられた者にしていただこう。求める者に主は必ず応え給う。