この山を我に与えよ
ヨシュア14:1-15
ここに登場するエフネの子カレブは、決して派手ではないが、素晴らしい信仰を主にささげた人だ。
彼は、カデシュ・バルネアでモーセの命を受けてカナンを探った12人の偵察隊の一人だった(民13:,14:)。カナンは豊かな土地だったが、10人の偵察隊員の不信仰の報告によって、民はみな不信仰になった。ヨシュアとカレブは信仰に立って進撃を勧めたが、多数の不信仰の声が勝ち、その結果、民は40年の荒野の旅を経ることになった。
モーセの後を継いだヨシュアは、ヨルダン川を渡ってカナンに侵入し、土地を占領し分割したが、偵察した時に20歳以上だった者で、カナンに入国したのはヨシュアとカレブだけで、他はみな荒野で屍をさらした。不信仰への神の報いだった。厳粛だ。
1.カレブに対する神の祝福は、第一に長寿だ。85歳は当時としては長寿で、神の祝福だった。第二に健康と力だ。カナンに派遣された40歳の時と同じ健康が、今も保たれていた。しかも、どんな働き、戦いにも堪え得る力にみなぎっていた。体力だけでなく、意志の力もそのままだったのだ。第三にビジョンだ。「この山地を…わたしにください」(12節)と求めた。アナク人もおり、町は大きく堅固で、困難な山地だが、彼には確信があった。
2.祝福の秘訣は、第一は信仰だ。「主が私とともにいてくだされば」(12節)とは、臨在信仰だ。偵察から帰ったときもこの信仰で復命した(民13:30,14:5-9)。神が味方なら、誰も敵し得ない(ロマ8:31)と信じる信仰に立っていた。今、同じ信仰でアナク人を追い出すと言うのだ。臨在信仰こそ祝福の秘訣だ。古き人をキリストと共に十字架につけて始末し、キリスト内住の信仰に立つのだ。
第二は服従だ。彼は「わたしは全くわが神、主に従いました」(8節)と言う。ひとかけらの不服従もない、100%の服従だ。しかも自分でそう言うだけではない。主ご自身が証言し給う(民14:24)。神への服従の人の模範は、もちろんキリストだ。キリストは、神のかたちであられたが、十字架の死に至るまで従順であられた(ピリ2:6-8)。このキリストの心をわが心としたい(同2:5)。努力や修行ではできない。主の内住によって初めて可能だ。臨在信仰と全き服従であって、これこそ神が見給うものだ。
「私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです」(11節)とは、何と力強い言葉か。我らの回りにも様々な戦いがある。絡み付く罪との戦い、試練との戦い、一人で証しを立てていく戦い、救霊の戦い…。どんな戦いにも堪え得る者でありたい。自信などではない。信仰だ。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ4:13)という信仰だ。我らを内から強め給う内住のキリストによって、万事が可能なのだ。この信仰と全き服従をもって前進しよう。「この山を我に与えよ」と、主のビジョンを求めて進もう。