きょう、驚くべきことを
ルカ5:17-26
イエスのもとに来て、虚しく帰った人はいない。ここに登場する人物も、イエスから祝福をいただいた。彼は中風を患い、つらい闘病生活を送っていたが、友人たちが、彼をイエスのもとに寝かせたまま連れて行った。
ところが、すでに大勢の群衆が詰めかけており、イエスに近づけない。彼らはなんとか方法を見出そうとし、屋上へあがり、瓦をはいで、病人を主の前につり降ろした。どうしても今日、主のもとへ連れて行きたいと願い、あとは主が癒してくださると信じたのだ。
主は病人に「…あなたの罪は赦された」と言われた。人々は驚いた。なぜか。第一に、神を汚す言葉に思えたからだ。律法学者たちは心の中でつぶやいた。主はその心を見抜かれた。主の前に隠れているものは何もない(詩139:1-4)。
イエスこそ罪を赦す権威を持っておられるお方だ(24節)。それは、①神から遣わされた神の子だからであり、②十字架にかかってくださったからだ。罪なき神の子イエス、我らの身代わりに十字架にかかられた。我らは、悔い改めと信仰により、罪からの救いをいただくことができる。赦罪-義認-神との和解-新生の救いを得ることができるのだ。
第二に、癒しを求めてきたのに、罪の赦しを言い渡されたからだ。イエスは、中風の男の悩みの根源をご存じだった。体の病気ではなく、魂の病-罪の問題が根底にあったのだ。
罪の問題から死の問題が生じる。人はみな死を恐れる(ヘブ9:27)。罪が解決していないからだ。罪と死という人間の本質的な問題に、イエスは解決を与え給う。十字架により罪が赦されたら、神の前に立てる。永遠の命、天国の希望が与えられる。中風の男は、この救いを得たのだ。
イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい…」(マタ11:28)と言われた。彼が求めていたのは平安、安らぎだ。それを彼は、罪赦されてイエスから得た。真の平安は罪の問題の解決から来る。
あなたは解決が付いているか。“罪などない”とは言えない(1ヨハ1:8)。罪のない人間は誰もいない(ロマ3:10)。だからイエスが十字架についてくださった。悔い改めと信仰により誰にでも罪の赦しが与えられる(ロマ3:24)。今、罪赦されたりとの確信をいただき、天国の希望をいただこう。
中風の男は罪が赦された。病も癒やされた(24,25節)。魂の問題、体の問題がイエスによって解決されたのだ。
人々は驚嘆し、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」(26節)と言った。我らも驚くべきことを見たい。救いのみわざを、またリバイバルのみわざを見たい。「きょう」だから、先の事ではない。今だ。なぜなら、終りが近づいているからだ。
“きょう、みわざを見させてください”と求めていこう。我らに求められるのは信仰だ。主は十字架で贖いを完成し給うた。あとはこちらが信仰をもって受け取るだけだ。主は真実にみわざをなし給う。あとはこちらが信仰をもって待ち望んでいくのだ。主に喜ばれる、柔らかい、素直な信仰をもって求めていこう(ヘブ11:6)。