エルサレムに生きる者
イザヤ4:1-6
イザヤ書のテーマは、さばきと回復だ。罪と汚れに対して、聖い神は厳粛なさばきを下す。だが、そのままで放っておきはしない。真の悔い改めに対して、豊かな回復を与える。今日開かれているイザヤ書4章にも、イザヤ書全体を貫く神のメッセージが凝縮されている。
1節は、メシア預言の一つで、新約の光をもって見るならキリストの救いを表している。「一人の男にすがりつ」くとは、キリストのもとに救いを求める姿だ(ゼカ8:23)。私たちは、罪のために神から遠く離れ、滅びゆく者だった。そんな私たちを救うために、キリストは神から遣わされて私たちのもとに来られた。キリストが十字架にかかって死に、死からよみがえられたことによって、神の救いは完成した。どんな罪を犯した者であっても、キリストのもとで罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(1ヨハ1:9)。この救いをいただいた者は、罪の恥辱を取り去られ、キリストの名によって歩むようになる。
4節に、神が、「さばきの霊と焼き尽くす霊によって」「汚れを洗い落とし」、血を「洗い流す」とある。救われた後の私たちの内側にある、汚れや暴虐の血、つまり肉を見過ごしにはなさらない。表向きはクリスチャンだ、神を信じていると言いながら、腹の中では罪を慕い、神に背き、神を押しのけてでも己を愛する本性だ。このような肉を抱え持っている限り、私たちは聖い神の前に立つことができず、滅ぼされてしまう。私たちの汚れを洗い落とし、聖くすることができるのは、さばきの霊、焼き尽くす霊であるキリストだけだ(マラ3:2,3, ルカ3:16,17)。私たちが己の汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、神はキリストの十字架を示してくださる。示された十字架に、私たちが肉をつけて始末するなら、キリストが内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。
私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、聖い神の前に立つにふさわしい者、いのちの書に名の記された者となることができる(黙20:12)。「エルサレムに生きる者として書き記されている」のだ(3節)。私たちの側にもエルサレムの名と主の名が銘記される(黙3:12)。内におられるキリストを通して、私たちは天に国籍を置く者としてこの地上を歩む(ピリ3:20a)。天に国籍を置く者に付与される特権は何か。主の臨在だ。「昼には雲」、「夜には煙と燃え立つ火の輝き」をもって臨んでくださる(5節)。私たちは、この臨在に伴われ、守っていただき、導いていただいて歩んでいく(民9:15-23, 黙7:14-17)。この地上を歩む限り、困難や試練はやってくる。しかし、内に生きてくださるキリストを通して、神の臨在によって、私たちは「暑さを避ける陰」、「嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家」をいただくことができる(6節)。これが、エルサレムに生きる者の歩みだ。キリストはもう一度地上に来られる。この再臨を待ち望み、共に携え上げていただくことができるのは、エルサレムに生きる者だ(ゼカ14:4-11)。
私たちの歩みはどうか。どこに生きているか。まだ罪の世にべったり生きているか。あるいは、肉に満ちた己に生きているか。罪を解決して救いをいただき、肉の始末をつけて、キリストを内にいただき、エルサレムに生きる者になりたい。