仕えるため
マルコ10:45
こんにちは、ご機嫌いかがですか。
クリスマスが近づきました。キリスト教の暦では、11月27日(日)から救い主のご降誕を待ち望む待降節、アドべントという期間に入ります。今やクリスマスは、世界的なイベントとなっています。なぜこのようにクリスマスが賑やかに祝われるのでしょうか。一体、何がお祝いされているのでしょうか。
新約聖書のマルコの福音書10章45節にこうあります。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
これは、キリストが十字架につけられる少し前に、弟子たちに語られた御言葉です。キリストは彼らに、ご自分が十字架の苦しみをお受けになることを予告なさいました。その直後に、弟子のうちの二人が、やがて主が栄光の座に着かれる時、自分たちを主の右と左の座に着かせてほしいと願い出ました。彼らは、主の受けなければならない苦しみなど全く意に介さず、自分たちの出世のことばかり考えていたのです。どこまでも自己中心な人間の姿です。
それに対して、キリストは、ご自分がこの世に来られたのは、仕えられるためではなく、仕えるためだと言われたのです。キリストのこの世に来られた目的が明確に述べられています。
確かにキリストは、心の低いお方、謙遜なお方としてこの世にお生まれになりました。お誕生の場所は、薄暗い家畜小屋です。寝かされたベッドは粗末な飼葉おけです。最初にお祝いにきた人々は、名もない貧しい羊飼いです。どこにも華やかさはありません。また、そのご生涯も、貧しい者や病める者を訪ね、友なき者の友となられ、どこまでも謙虚な歩みでした。そしてその末は、惨い十字架でした。
キリストは罪のない神の御子でした。その御方が、神の位を捨てて貧しくなられ、わざわざ私たちと同じ人となってこの世に来られ、己を低くして、仕える者のように歩み通されて、十字架にまで下られたのです。本当は滅びなければならないのは、罪人の私たちでした。あの自己中心の弟子たちは、私たちの姿です。その私たちが罪から救われるようにと、罪のないキリストが、私たちの身代わりとなって十字架にかかられたのです。
クリスマスとは、私たちのために死ぬことを目的としてこの世にこられた救い主のお誕生を喜ぶ時です。このクリスマスの意味を、あなたも知ってください。
教会では、12月24日(土)、午後3時よりクリスマス・チェロコンサートを開きます。ベアンテ・ボーマン先生とルリ子・ボーマン先生による、心あたたまる音楽とメッセージのひと時です。入場無料です。ぜひ今からご予定ください。