神様の招きに応えよう
イザヤ55:1
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
旧約聖書のイザヤ書55章1節にこういう御言葉があります。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」ここで、「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」と言われているのは、神様の豊かな祝福のことです。
神様の祝福とは何でしょうか。商売繁盛、無病息災、家内安全…といったものでしょうか。いいえ、そんな程度のものではありません。私たちの魂がきよくされ、周りの状況に左右されない平安が与えられるというものです。
私たち人間は、神様の御手によって創造されました。ところが私たちは、神様に背いて罪を犯し、神様の御手を離れました。そして、自分勝手な、わがままな道を歩むようになりました。これが、聖書の言う罪です。この基準に照らされると、私たちは誰一人例外なく、神様の前に罪人です。どんなに世間の目に立派な人でも、神様から裁かれなければならない罪人です。そんな私たちを、神様は憐れんでくださり、救いの道を開いてくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。
キリストは罪のない神様の御子でしたのに、惨い十字架にかかり、血を流して死なれました。私たちが罪赦され、きよい心を持つためです。どうすればいいのでしょうか。罪を認め、悔い改め、キリストの十字架がこの自分のためだったと信じればいいのです。こうして、私たちの罪は赦され、平安が与えられます。この平安は、周囲の環境や状況によって動かされません。これが神様の祝福です。
この祝福は、私たちすべての者に約束されています。「金を払わないで」、「代価を払わないで」とあります。誰にでもただで、無償で与えられるのです。ただし、「買え」と言われます。矛盾しているようですが、真理をついています。神様の祝福は、こちらが意志をもって渇いて求め、信じる者には、ただで与えられるのです。
神様は「さあ」と私たちを招いていてくださいます。この招きにお応えしませんか。そのままで神様の前に出て行きましょう。“もうちょっと理解してから”とか“もうちょっとちゃんとなってから”ではなく、神様の招きが聞こえている、今です。
教会では、新型コロナウイルス感染防止に努めながら、毎週日曜日、午前9時半からと11時からの二回に分けて、礼拝を行っています。どなたでもお気軽にお越しください。