喜びと感謝の生活を
1テサロニケ5:16,17,18
こんにちは、ご機嫌いかがですか。
私たちの毎日は、楽しいことばかりではありません。つらいことや悲しいことも起こってきます。苦あれば楽あり、それが人生なのかもしれませんが、やっぱり、いつもにこにこしていて楽しい気持ちでいることができれば、どんなにいいだろうと思います。
新約聖書のテサロニケ人への手紙第一5章16,17,18節にこうあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
何と難しい注文でしょうか。うれしいことがあれば誰でも喜びます。自分に好都合なことがあれば感謝もします。しかし、「いつも」、「すべてのことにおいて」となると、私には無理だ、と諦めてしまうでしょう。
聖書は、無理なことを注文しているのでしょうか。高い理想を掲げているだけなのでしょうか。そんなはずはありません。聖書の御言葉は、命令だけではなく、約束なのです。神様は、私たちに、こうあるべきだと標準を示しておられるだけではなく、そのようになることができるのだと約束していてくださるのです。
そもそも、なぜ私たちが、いつも喜べず、すぐにいらいらしたり、怒りっぽくなったりするのでしょう。なぜ全ての事を感謝できず、不平不満をぶちまけたりするのでしょう。それは、罪のためです。心が神様から離れてしまっているために、喜びや感謝がなくなっているのです。
ですから、まず罪が解決されなければ、この問題は収まりがつかないのです。イエス・キリストは、罪のないお方でしたのに、十字架にかかって死なれました。私たちの身代わりでした。ただ、私たちが自分の罪を悔い改め、キリストの十字架がこの自分のためだったと信じれば、どんな罪も赦され、救われます。この救いをいただいた人こそ、不断の喜びと堪えざる感謝があふれる生き方に変えられるのです。
いつも喜び、絶えず祈り、全ての事を感謝する生活は、標準が非常に高いです。しかし、私たちのものになります。神様は、がんばればできるとは言われません。キリストの救いをいただいたら、そのような歩みを始めることができると言われるのです。
あなたは今、喜びがあるでしょうか。感謝でいっぱいでしょうか。もしそうでないなら、今、ここから、そういう歩みを始めたいとお思いになりませんか。キリストのもとにいらっしゃってください。そこにこそ解決があります。
教会ではあなたのおいでを心からお待ちしています。