ただ一つの救い
使徒4:12
こんにちは、ご機嫌いかがですか。
“分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな”という昔の人の歌があります。登山道はいくつかあっても、頂上に上り詰めれば、同じ一つの月を見るではないか、という意味で、この世で宗教は数多くあるけれど、結局、行き着くところは一つだ、ということを歌った歌だそうです。しかし、本当にそうでしょうか。
新約聖書の使徒の働き4章12節に、こうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」イエス・キリスト以外に救いはない、というのです。先ほどの昔の人の歌とは、全く逆ですね。
中庸を重んじる日本人は、“同じ高嶺の月を見るかな”のほうがピッタリ来ると思いがちです。“白か黒か、どちらか”という考え方より、“白でもない、黒でもない、白のようだが、黒のようでもある”という曖昧さが受け入れられやすいのでしょう。一般的なものの考え方は、それでいいかもしれません。しかし、魂の救いに関しては、はっきりさせる必要があります。
聖書は、なぜキリスト以外に救いはないと断言するのでしょうか。確かな根拠があるのです。第一に、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかって死なれました。私たちは、神の御手によって創造されたにもかかわらず、神を信じようとせず、神に背を向けて歩んでいた、滅び行く罪人です。しかし、愛なる神は、御子イエス様を十字架におかけになりました。罪のない神の子イエス様が、罪に染まった私たちの身代わりに、十字架で血を流して死なれたのです。私たちは、自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架がこの自分のためだったと信じれば、誰でも罪が赦され、救われます。この私のために、十字架でいのちを捨ててくださったのは、イエス様だけです。
第二に、イエス様は墓の中からよみがえられました。十字架で死なれたイエス様は、墓に葬られましたが、三日目に復活されました。死の力を打ち破られたのです。十字架で罪が赦された者は、復活の力、永遠のいのちが与えられ、もはや死を恐れなくなります。天国の希望が与えられているからです。死の闇の中からよみがえられたのは、世界広しと言えども、イエス様だけです。
このように、十字架で死なれ、復活されたイエス様以外に、私たちの救い主はいません。イエス様を信じることが、私たちが罪と滅びから救われ、天国の希望をもって喜んで歩んで行くただ一つの道です。あなたも、ぜひこの道を歩んでください。
教会では、あなたのおいでを心からお待ちしています。