どんなことでもできる
ピリピ4:13
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
ピリピ人への手紙シリーズ第29回は、4章13節です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」とあります。なんと力強い御言葉でしょうか。しかし、自分とはかけ離れたことを言っている、という感じがしないでもありません。
私たちは、限界だらけの存在です。なかなか一つのことを最後までやり遂げることができない、人をとことん愛することができない、いつも喜んでいることができない。あれもできない、これもできない、できない、できない、できない…。なんと無力な自分かと、情けなくなってきます。仕方がない、と言って諦めるほかないのでしょうか。
パウロは、「どんなことでもできる」と言います。このときパウロは、獄中に囚われの身だったのです。自由が奪われていたのです。それでも、そう言ったのです。負け惜しみや強がりではありません。本音の言葉です。これは、信仰による言葉です。
確かに私たちは、限界だらけの存在です。自分の力では何ほどの事もできません。しかし、恵みによって何でもできるのです。「私を強くしてくださる方によって」というところがポイントです。誰が強くしてくださるのでしょうか。キリストです。私を愛し、私の罪のために十字架にかかって命を捨て、死の中からよみがえってくださったキリストです。私の犯した罪を、十字架の血潮ですべて赦してくださり、さらに赦されたのちもなお傲慢で、自己中心な己、罪を犯させる根を、十字架の血潮で取り除き、まったく潔めてくださるキリストです。
このキリストによって、つまりこのキリストが私の内に住んでくださるという恵みによって、そしてこのキリストを信じる信仰によって、私たちが内側から強められ、どんなことでもできる者になるのです。
どんなことでもできると言っても、スーパーマンになるのではありません。外側は依然として弱い者です。しかし、内に強いお方を持っていますから、どんな境遇にも対処することができ、誰をも愛することができます。“こうあらねばならない”という義務感からではなく、恵みによって可能なのです。
そういう者になりたいと思われませんか。キリストのもとに行きましょう。努力や鍛錬は必要ありません。求められるのは信仰だけです。十字架の贖いを信じる信仰と、なしてくださる神様を信じる信仰です。恵みを求めて、信じて従っていきましょう。努力や鍛錬はあとからついてくるものです。
教会では、毎週日曜日、午前10時半より礼拝を行っています。どなたでもおいでいただける、開かれた集いです。ぜひ一度おいでください。