真の割礼ある者
ピリピ3:3
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
ピリピ人への手紙シリーズ第19回は、3章3節です。こう書かれています。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」
割礼というのは、男子の性器の包皮を切除する儀式で、旧約時代、神がアブラハムに与えられた契約のしるしでした。イスラエルの人々は、神の契約の民としてのしるしであるとして、これを非常に重んじ、また誇りとしてきました。しかし、時代の流れと共に形骸化し、その精神を忘れて形式だけを重んじるようになりました。
ここでパウロは、本当の割礼の者とはどういう者かを示しています。本当の割礼の者とは、まず神の御霊によって礼拝をする者だと言います。私たちはどんな姿勢で礼拝をするでしょうか。日曜日が来たから、時間が来たから、習慣的に教会に行って礼拝をするでしょうか。早く終わらないかな、終わったら何をしようかな、と考えながら礼拝をするでしょうか。それは、真の礼拝の姿勢ではありませんね。心からまことの神様を礼拝したい、神様がきょう私に語ってくださる御言葉に、耳を傾けたいと願って、謙遜と渇きをもって礼拝をする。それが本当の礼拝者の姿ですね。
次にパウロは、キリスト・イエスを誇る者だと言います。キリストを誇るとは、キリストが私の全てですと告白することです。キリストは私の大切な救い主だけれど、ほかにも大切なものがある、というのではなく、私を愛し、私のために十字架で命を捨ててくださったキリストだけで十分です、と心の底から言い表し、そのように生きていくのです。
最後に、人間的なものを頼みにしない者だと言います。人間的なものを頼みにするとは、自分の力、知識、経験などに頼って生きていくことです。そうではなく、自分は全く無力ですと認めて、全能の神に信頼して生きていく、これが人間的なものを頼みにしないということです。
私たちも、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない、真の割礼ある者、神の契約の中に入れられた者になりたいですね。まず、キリストの十字架による罪の赦しをいただきましよう。さらには、内側になお残る古き人を十字架につけて、キリストに内に住んでいただくという恵みをいただきましよう。そこから、まことの契約の民としての歩みが始まります。
恵みをいただいて、神様に喜ばれる者とならせていただきましょう。
教会では、あなたのおいでを心からお待ちしています。