真に求めるべきものは
ピリピ2:21
こんにちは。お元気ですか。またピリピ人への手紙の学びを再開しましょう。
シリーズの第18回になりますが、2章21節です。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」
幸せになりたいというのは、誰もが願うところです。幸福の追求は、私たちすべての者に与えられた権利です。しかし、ともすると、その権利を自分だけに当てはめ、他を省みないということが起こりがちです。自分が幸せになりたい、自分が富や名声を得たい、自分がいい気持ちでいたい、自分が、自分が…。このように、いつも自分を中心に周りが動いているかのような錯覚にとらわれるのです。
ある時、2人のキリストの弟子たちが、“ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください”とキリストに願い出ました。マルコ10章の記事です。彼らは、王なるキリストの右大臣、左大臣にしてくれと願い出たのです。これは、キリストが、ご自分がやがて十字架の苦しみをお受けになることを予告された直後のことでした。彼らは、キリストがどんな思いで受難を予告されたかを、これっぽっちも察しようとせず、ただ自分の肉の思いだけで頭がいっぱいだったのです。
パウロは鋭く言い放ちます。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」と。“いいえ、私はイエス様のことを第一に求めています”と反論したいと思われますか。その思いに偽りはないでしょう。しかし、いざとなったら、私たちはやはり、自分のことを真っ先に考え、自分の益になることを第一に求めてしまうのです。順風満帆の時は“イエス様が一番!”と言いますが、ちょっと逆風が吹いてくると、自分の都合が最優先で、結局イエス様が二の次、三の次になり、ついには一番後に回してしまうのです。
なぜでしょうか。肉だからです。肉の思いは、キリストのことを第一には求めないのです。自分が中心でないと我慢ができず、すぐに自分がかわいそうになり、あるいは自分をよしとするのです。この肉が始末されなければ、どうにもなりません。
肉の始末とは、どうするのでしょうか。十字架を信じるのです。まず自分の自己中心の醜い姿を認め、その古い自分を、信仰をもってキリストの十字架に一緒につけて、そして、キリストが私の内に来てくださったと信じるのです。自分に言い聞かせ、無理に思い込むのではありません。信仰によって受け取るのです。これが聖潔の恵みです。
この恵みをいただいて、私たちは初めて、自分のことは後回しにしてでも、まずキリストのことを求める者になります。キリストがご自分の命を捨ててまで、私たちを愛してくださったように、私たちもすべてを捨ててキリストに従う者になるのです。恵みを求めていきましょう。
教会では、あなたのおいでを心からお待ちしています。