キリストの心
ピリピ2:5
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
ピリピ人への手紙シリーズ第12回は、2章5節です。パウロは言います、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」と。これを文語訳聖書で読むと、こうなります。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。」
キリスト・イエスの心とは、どんな心でしょうか。やさしい心でしょうか、愛に満ちた心でしょうか。確かにそうです。しかし、次に続く御言葉を読むと、はっきりします。少し長いですが、6節~8節を読みます。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
これは、キリストがどれほどへりくだったお方であったかを示す御言葉です。キリストは神の御子でしたが、神の栄光を捨てて、私たちのこの世に来てくださいました。その有様は、私たちと何ら変わらない、一人の弱い人間でした。私たちと同様どころか、私たち以下の僕のような、徹底して低い姿勢をとられ、どこまでも神様の御心に従順に従って歩まれました。そして、ついに十字架にかかられました。十字架は、父なる神様に対する、キリストの徹底した従順の結果だったのです。
このようにして見ると、キリスト・イエスの心とは、神様の御心への完全な従順だということができます。この心を自分の心にせよ、とパウロは言うのです。
私たちも、キリストのように、神様の御心に完全に従いたいです。それも、肩肘張らず、また嫌々ながらでもなく、ごく自然体で、喜びをもって従いたいです。
しかし、そのままでは従えません。罪があるままでは、神様に喜んで従うことができません。今まで犯してきた数々の罪を悔い改め、キリストの十字架が自分のためだったと信じて、罪の赦しをいただきましょう。さらには、救われてもまだ神様に敵対する罪の性質を、十字架の血潮で取り除いていただき、キリストがわが内に来てくださるという恵みをいただきましょう。この全き救いによって、私たちもキリストのように、低い心で、しかも喜びをもって神様の御心に従うことができるのです。キリストの心が自分の心となるまで、求めていきましょう。
教会では、毎週日曜日、午前10時半より礼拝を行っています。どなたでもおいでいただくことができる、開かれた集会です。ぜひ一度おいでください。お待ちしています。