生きることはキリスト
ピリピ1:21
こんにちは。お元気でお過ごしですか。
ピリピ人への手紙シリーズ第7回は、1章21節です。こうあります。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」短いながら、力強い御言葉ですね。
この御言葉をお聞きになって、違和感を覚えられませんか。“私にとって生きることは楽しい”とか、“生きることは面白い”という言い方はしても、普通、「生きることはキリスト」とは言いません。「生きることは」の後に固有名詞は来ないのが常識です。それを承知で、パウロは「生きることはキリスト」と言いました。そこには、深い意味があるのです。
パウロは、始めはキリストに敵対していました。キリストは自分が信奉するユダヤ教の敵であり、クリスチャンは世の中から抹殺しなければならない存在だと思い、キリスト教会を迫害していました。ところが、強烈な光を浴びて、復活のキリストに出会い、彼は根底から変えられました。神のためと思い込んでクリスチャンを迫害してきた自分こそ、神に敵対する者であり、とんでもない滅び行く罪人であることがわかったのです。それまでは、律法をきちんと守っていくことによって神に近づけると信じていましたが、キリストの十字架を信じて罪が赦され、さらにキリストを内に宿すことによって神に喜ばれる者になれるという福音の真髄に目が開かれたのです。
キリストを内にお宿しする、と言っても、特別神秘的な体験をするのではありません。十字架を信じて救われても、まだ罪を犯させる古き人、なお自己中心の自我、神様のことよりも自分の都合を最優先させたいという肉を、信仰によってキリストと共に十字架につけ、信仰によってキリストに内に生きていただく、という恵みをいただくのです。これが、「生きることはキリスト」ということなのです。パウロはこの恵みの中に生きていたのです。
私たちも、そのような生き方をすることが出来ます。罪・汚れに満ちた自分の姿がわかって、真摯に求めていけば、神様は必ず導いてくださいます。求めていきましょう。
教会では、毎週日曜日、午前10時半から礼拝を行っています。賛美歌を歌い、牧師が語る聖書からのメッセージを聞きます。どなたでも集っていただける開かれた集会です。あなたのおいでを心からお待ちしています。