重荷を下ろせるところ
マタイ11:28
こんにちは、お元気でお過ごしでしょうか。
“人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし”これは、江戸幕府を開いた徳川家康の書き残したと言われる言葉です。確かにそうです。だれでも、多かれ少なかれ、重荷を背負っています。心の悩みや生活上の問題など、様々な重荷が私たちの肩にのしかかってきます。しかし、キリストはこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイの福音書11章28節の御言葉です。
私たちは、どんな重荷を背負っているでしょうか。仏教では、人には、生きること、病気になること、年を取ること、そして死ぬことの4つの苦しみがあると言います。なぜ生きることが苦しみになるのでしょうか。様々な災いや困難があるからでしょうか。それだけではないでしょう。
重荷とは、私たちの外側にではなく、内側に、私たちの魂の中にあります。人を愛したいのに愛せない、許したいのに許せない、喜んでいる人と一緒に喜んであげることができない…というような、自分の内面の醜さに気がつかれたことはありませんか。聖書では、それを「罪」と言います。罪をもったままでは、私たちのうちに、喜びも平安もありません。私たちを本当に苦しめる重荷とは、この罪なのです。キリストは、そういう罪の重荷を取り除いてくださるのです。
キリストは、私たちを罪から救うために、十字架にかかって死なれました。私たちが、自分の罪を悔い改め、キリストの十字架はこの自分のためだったと信じるなら、誰でも、どんな罪も赦されます。罪の重荷が取り去られるのです。この時、私たちの魂に、平安が与えられます。誰も奪い去ることができない平安です。そして、この魂の救いをいただいたら、心の悩みやトラブルも、自ずと解決されてくるのです。
あなたが今背負っておられる重荷は、必ずキリストが降ろさせてくださいます。キリストのもとに行きさえすれば、きっと解決が与えられます。どうぞ、そのままでキリストのもとに行きましょう。
教会では、毎週日曜日、朝10時半より礼拝を行っています。クリスチャンであるなしにかかわらず、どなたにでも開かれた集会です。お気軽においでください。
最後になりましたが、このたびの集中豪雨による大洪水のよって、多大の被害をこうむられた関東地方・東北地方の方々の上に、主の助けと励ましと癒しが与えられますよう、心よりお祈りいたします。