砕かれた、悔いた心
詩篇51:17
こんにちわ。ご機嫌いかがですか。
8月も下旬。猛暑が続いたこの夏も、終わりを告げようとしています。夏の疲れが出てくるころです。疲れてくると、イライラし、怒りっぽくなったり、人に当たったりします。そんなとき、つくづく人間とは罪深い存在だと思います。
しかし、そんな罪深い私たちを、神は愛してくださいました。神は、豊かな恵みをもって私たちを愛していてくださいます。神の恵みは、草木などの自然界や、衣服・住まいなどが与えられていることに現れていますが、一番強く神の恵みが現れたのは、イエス・キリストの十字架でした。
キリストは、神の御子であられましたが、汚れたこの世に来られ、貧しい生活に甘んじられ、ついに十字架にかかられました。それは、私たちの罪のためでした。
私たちは皆、神の前に罪人です。人を恨んだり、憎んだり、あるときは傷付けたりします。罪に気が付いて、やめようとしても、すぐに同じ過ちを犯してしまいます。なぜでしょうか。それは、私たちは生まれながらにして罪人だからです。ダビデというイスラエルの王は、詩篇51篇5節でこう言っています。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」
ダビデは立派な王でした。しかし、一度だけ、恐ろしい罪を犯してしまいました。忠実な部下の妻を横取りし、さらにそれをごまかすために、夫であるその部下を策略をもって抹殺してしまったのです。当時としては、一国の王なら、それ程珍しいケースではありませんでした。しかし、神のみ言葉によって、それは神に対する罪だということが示されたのです。
そのとき彼は、自分が神の前に、頭の先から爪先まで真っ黒な罪人であることが分かったのです。彼は、心から神の前に悔い改め、憐れみによって神に赦していただきました。
私たちも、ダビデと同じような、いやそれ以上の罪人です。しかし、そんな私たちの罪のために、罪のない神の子イエス様が、十字架にかかってくださいました。私たちの罪を赦し、滅びから救うためです。
私たちはただ、心から罪を悔い、神の前に出て罪を告白し、イエス様の十字架が自分のためだったと信じるだけです。詩篇51篇17節に「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあるように、素直な心で神の前に出ていきましょう。神は、すばらしい救いの恵みを与えてくださいます。
一度教会にお越しください。あなたの求めておられるものがきっと得られますよ。
教会では、9月12日(土)午後7時より、韓国のキリスト教会の長老、ジェームズ・リーさんによるサクソフォン・コンサートを開きます。入場無料です。ぜひお集いください。