礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.12.27

感謝から祝福へ

詩篇103:1-5

本日の箇所には1節ずつ、キーワードがある。1節「ほめたたえよ」、2節「良くしてくださったこと」、3節「癒や(す)」、4節「かぶらせ(る)」、5節「新しくなる」。2節から順番に見ていきたい。

「良くしてくださったこと」。口語訳では「恵み」、新共同訳では「御計らい」とある。原語では“十分・適切に取り扱う”という意味になり、さらには“乳離れさせる”、“熟成させる”という意味もある。さらに、前者から“悪い習慣をやめさせる”という意味、後者から“寝かせる、あえて放っておく”という意味も派生する。私たちに注がれる主の恵みとは、私たちに対する御計らいということであり、神は、時に、私たちを成長・成熟させるために、厳しいところに置かれたり、黙って待たれたりすることがある(ヘブ12:5-7,11)。

「癒や(す)」。実際に肉体・精神・心の癒やしが起こることもあるが、ここではむしろ、直前の「咎を赦し」の結果を指す。「癒やす」という語には、“祭壇を立て直す”、“水を良くする”という意味がある。主の良くしてくださったこと、主の恵みの根本は、私たちの魂の救いである。この救いを与えてくださるために、神の御子キリストが十字架にかかってくださった。私たちはキリストの十字架を信じることによって全ての罪を赦していただき、それまで失われていた祭壇を神の前に立てることができる(イザ19:20-22)。それは、あたかも、濁った水がきれいになるようなことである(出エジ15:24-26)。

「かぶらせ(る)」。こちらも、直前の「あなたのいのちを穴から贖われる」の結果である。「穴」は新共同訳では「墓」とある。私たちの魂は永遠の死が定められていた。しかし、キリストの十字架による救いによって、私たちは穴から引き上げられた(イザ15:22)。そればかりか、私たちのぼろぼろの衣服は脱がされ、神の皇太子の装束が着せられ(ルカ15:22)、頭には冠がかぶらせされた。“かぶらせる”には“覆う”、“囲む”という意味もある。豊かな主の恵みとあわれみに、私たちは覆われ、囲まれている(詩23:5,6)。

「新しくなる」。これも、直前の「良いもので満ち足らせる」の結果である。私たちが自分で良いものを満ち足らせることはできない。なぜなら、私たちの内側には、悪い、汚れた、醜いもの、が満ちているからだ。救われた後も、汚れた肉の性質が残っているのである。しかし、キリストの十字架にはそのような肉の性質をきよくする力がある。私たちが肉を十字架につけて始末するならば、主が私たちの内側に住んでくださり、私たちの内側は良いもので満ち足りることができる。そうされた者が、「鷲のように新しくなる」ことができる。鷲には、羽根が抜け替わる、換羽(かんう)という性質がある。それまでの古い羽根が抜け落ち、新しい羽根が生えてくるのである。そうして鷲は、また新しく、力強く、飛びかけることができる(イザ40:31)。私たちも、内住のキリストによって新しくしていただきたい。

「ほめたたえよ」。“祝福する”という意味の言葉だが、“膝をつく”というニュアンスがある。親が子どもの前に膝をつき、抱き寄せて、頭に手を置く様子に由来する(ルカ15:20)。主は私たちに祝福を与えてくださるために、膝をついてくださった。御子キリストを私たちのために十字架にまでかけるほど私たちを愛してくださった(ロマ5:8)。私たちも、この主の愛をもって、人々を祝福していきたい。口先や表向きではなく、膝をついていきたい。膝をついて祈り、膝をついて愛を尽くしていきたい。そこから祝福の連鎖が始まっていく。私たちは、この連鎖の起爆点である。これが、私たちが主をほめたたえ、主の良くしてくださったことを覚えていく目的である。

今年は、おそらく誰にとっても試練の年となった。だが、私たちは主の恵みを覚えて感謝し、主への感謝から祝福を生み出していきたい。祝福を祈る心で新しい年へと向かっていきたい。