世に現された最高の愛
ヨハネ3:16-21
聖書の中の聖書と言われるヨハネ3章16節には、本当の愛とはどういうものかが表現されている。
ギリシャ語で愛を表す言葉に四つある。男女の愛を表すエロース、親子の愛を表すストルゲー、友愛を表すフィリア、神の愛を表すアガペーだ。前の三つは、私たちが生来有している人間的な愛と言えるが、アガペーは本来人間が知らなかった愛で、神だけが持っておられたものだ。そのアガペーの愛を、神はご自身の独り子イエスを通して私たちに現わされた。
イエスは私たちのために十字架にかかり、私たちにいのちを与え尽くされた(1ヨハ3:16)。真の愛とは、愛する人のために死ねることだ。死ぬとは、逆に生きることだ。相手のために、相手を幸せにするために、最後の一息まで命を注いで生きることだ。
人間の愛は、結局は自分に向かう愛、自己中心な愛、惜しみなく奪う愛だ。それが人間の愛だ。純粋な親の愛でさえ、憎しみに変わることがある。人間的な愛とアガペーの愛は、なぜこうも違うのか。それは、前者は、神から離れ、神の栄光を失った人間の愛であり、後者は、そのような人間をなお愛し、御子を惜しみなく与えるほどの神の愛だからだ。
神は、その独り子を下さったほど世を愛された。しかも、与えた独り子が、呪われた蛇のように十字架にさらし物にされるのを見越して、神は御子を与え給うたのだ(14節)。
神はこのことを断行された。そこには父としての痛みがあった。「世」とは私たち人間のことだ。神によって神のかたちに創造された人間(創1:27)、神の息で生きる者となった人間(創2:7)は、神との交わりの中で生きる存在だったのに、神のご命令に背いて罪を犯した。その結果、人間の中にある神のかたちは破壊され、人間は神に敵対する存在になった。神に背いた私たちの結末は滅びだ(ロマ6:23)。そのような人間、堕落してしまった人間を、神は愛してくださった。人間の愛は、愛する価値のあるもの、愛して報いが返ってくるものを愛する愛だが、神は、愛されるに値しない私たちを、独り子をお与えになるほどに愛してくださったのだ。
キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれた。その死によって、滅ぶはずの私たちが生きるための死だった。これこそ最高の愛だ(ヨハ15:13)。「永遠のいのちを持つため」とあるように、キリストの死は、私たちが真に人間らしく地上で生きて、永遠のいのちをもって永遠に生きるためだ。神に顔を向けて生きるのが、神に創造された人間の生き方だ。
どうすればそういう生き方ができるか。「御子を信じる者が」とあるように、キリストを信じることだ。罪を悔い改め、十字架を信じて、赦罪の恵みが与えられる。罪が解決したら、死も解決する。つまり死の恐れや不安が取り除かれるのだ。罪と死の問題が解決すれば、具体的な一つ一つの問題も解決してくる。
父の犠牲と独り子の犠牲により、私たち全ての者の贖いは成し遂げられた。信じる者は一人も滅びずに、永遠のいのちを得る道が開かれた。しかも永遠の贖いだ。罪の赦しのみか、汚れからの聖潔(きよめ)まで含む救いだ。これを与えるために御子は世に来られた。
神の全き救いは、すでに十字架の上に成就している。神は、この完成された贖いが私たち一人一人に届いてほしい、私たちがこれを信じ受け入れ、恵みに与ってほしいと切に願っておられる。
神はあなたを最高の愛をもって愛しておられる。史上最高の愛を、そのまま素直に受け取らせていただこう。