みこころを行うために
ヘブル10:1-10
本書には、イエスの贖いがいかに優れているかが、旧約の祭司の執り成しに対比して述べられている。とくに前章と本章にはイエスの血の力が言い尽くされている。
イスラエルの民と血には深い関係があった。出エジプトの時、小羊の血が門柱とかもいに塗られ、その血を見て神は過ぎ越された。幕屋時代、罪の赦しのために祭司は祭壇に犠牲の血を注いだ(9:22)。特に大祭司は年に一度、至聖所で贖いを行った。年に一度の罪の総決算だった。
しかし、それには次の点で限界があった(1節)。①律法は、後に来る良きものの影、つまり真の形を備えていないものだった。②年ごとに絶えず繰り返し献げられなければならなかった。③近づいて来る人々を完全にすることができない限界があった。
祭司が贖いに用いる動物の血は、罪を除くことができなかった(4節)。しかし、限界のある旧約のいけにえに代わる、真のいけにえ、体を備えられた実体としてイエス・キリストが来られた(5節)。5-7節は詩篇40篇6-8節の引用だ。その6節「汝わが耳をひらきたまえり」(文語訳)は、奴隷がいつまでも主人に仕えることのしるしとして、きりで耳に穴があけられたことに関連する(出21:1-6)。耳に穴があけられることは、その奴隷の主人に対する従順の意志を表した。
イエスは神の御旨にどこまでも従われた。十字架の死に至るまでのキリストの徹底した従順だ(ピリ2:6-8)。主が肉体を備えられて来られたこと(5節)と、「汝わが耳をひらきたまえり」ということと、「われは聖意にしたがふことを楽む」(詩40:8文)ということは、三本の綱をより合わせたような一つの真理で、それは従順の一事に尽きると小島伊助師は語られた。
イエスは父の御心を行うために肉体を備えられた(7節)。父の御心とは、私たちの救いのために御子が父から捨てられることだった。主は「みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)とご自身を献げられた。この主の従順のゆえに、私たちは全き救いにあずかることができる。十字架において、神に逆らう自我に死んで、キリストが内に生きてくださるという信仰によって、どこまでも従順であられた主のように、私たちも神の御心に従順な者になる。
神は、全焼のいけにえや罪のためのいけにえではなく、御子の従順を喜ばれた。私たちが救われたのは、律法の行いやいけにえの立派さによらず、ただ主が従順に十字架に血を流されたことによったのだ。
イエスは父の御心に基づき、御心に従って、ただ一度の贖いを成し遂げられ(10節)、私たちの贖いは完成された。「私たちは聖なるものとされています」(10節)とは、イエスはすでに全き救いを成し遂げられたということだ(ヨハ19:30)。私たちの贖いは十字架で完成しているのだ。あとは私たちが、時々刻々信じて従い続けるだけだ。
イエスは、御心を行うために肉体を備えられ、御心に従って十字架の贖いを全うされた。神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた。これがキリストの受肉降誕だ。私たちを救い、従順な者にするために、主は御父の命(めい)に従って世に遣わされて来られ、十字架の死まで従順に従われた。
「あなたのみこころを行うために」(7節)と、私たちも申し上げる者になりたい。御心に従うことを楽しむ者になりたい。肉では御心を行うことを喜べない。我意を押し通したいという者だ。そんな汚れた魂を潔め、御心に従順な者にするのが、キリストの血潮だ。
キリストの来臨を待ち望むのがアドベントだ。それは再臨待望にもつながる。この終わりの時代、私たちの魂が神の前に整えられて、心からキリストの再臨をお待ちしたい。