仕えるため
マルコ10:35-45
イエスは弟子たちと共にエルサレムに向かう旅行の途上にあられた(32,33節)。目的は十字架におかかりになることだ。主は先頭に立って歩いて行かれた。そのお姿は、弟子たちが驚くほどに堂々たるものだった(ルカ9:51)。神のご計画に間違いはないと、全幅的な信頼を寄せておられたからだ。
主が弟子たちに何度目かの受難予告をされた直後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、御国で主の左右に座することを嘆願した。主は死刑宣告、嘲笑、鞭打ち、十字架と、受難を具体的に詳しく述べられた。それなのに、彼らは主の苦しみを少しも察しようとせず、自分たちの出世を嘆願したのだ。
主は彼らに、自分が何を求めているのか分かっていないと言われた(38節)。彼らは本当に求めるべきものが何か、分からなかったのだ(ピリ2:21)。他の十人は憤慨したが、それは二人が抜けがけをしたことへの怒りであり、良い地位に就きたい、偉くなりたいというのは、みな同じ思いだったのだ。
主は彼らを呼び寄せ、こんこんと諭された。この世では、偉くなりたいと思う者は、人を押し退けてでも上に上がろうとする。生き馬の目を抜く競争社会で、ボヤボヤしていたら落ちこぼれになる。しかし、主の弟子たる者は違う。偉くなりたいなら仕える人に、先頭に立ちたいならしもべになるべきだ。主に従う者は、この世の法則ではなく、天国の法則で生きるのだ。
そのような生き方は、主ご自身が手本を示された。主は「人の子も、仕えられるためではなく…」(45節)と言われた。主は神の栄光を捨てて、私たちと同じ人となって世に来られた。貧しい人を尋ね、友なき者の友になり、病人を癒し、不自由な人を解放し、ついに十字架にかかられた。多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えられた。こうして主は命をかけて手本を示されたのだ。
もし私たちも自己中心で、十字架の主に無関心、無感動の冷ややかな心であるとするなら、その原因は自分を喜ばせたい肉だ。主の右と左に着座したいという弟子たちの思いは、結局は自分が一番可愛いというところから出たものだったのだ。
自分が求めているものが、的外れなものである場合がある。一番に求めるべきものは、目が開かれて、主のようにみこころに従う者になることだ。
このあと、バルティマイの記事がある(46-52節)。彼は自分が見えないことを自覚しており、「ダビデの子」救い主なるイエスに、見えるようになることを必死に求めた。求めていくとき、主が見せてくださるのは、古き人がキリストと共に十字架に付けられている事実だ。キリストは十字架で私たちの救いを完成してくださった。その十字架を信仰をもって見上げ、待ち望むなら、キリストが内住してくださるという信仰に開かれ、いつもその信仰で生きる者になる。
私たちも真にへりくだった、素直な、従いやすい心にしていただこう。内に主をいただいて、徹底的に神のみこころに従われた主のようになりたい(ピリ2:6-8)。このキリストの従順をわがものにしたい(ピリ2:5(文))。
アドベントを迎えた。神の御子が仕える者のあり方を示されたことを覚え、私たちも恵みによって主と人に仕える者とならせていただこう。