見えないものに目を留める
Ⅱコリント4:16-18
コリント教会が建っていたコリントの町は、古代から繁栄した大都市だった。港町だったことと陸の要所だったことから、人や物の行き来が盛んで、町には雑多な民族が住んでいた。そのため、町はあらゆる宗教で満ちて、それぞれの宗教的な慣習と共に入り込んだ不品行と不道徳がはびこっていた。そのようなコリントにも、パウロの伝道によって福音が伝えられ、目が開かれて救われる人が起こされ、教会が生まれた(使18)。しかし、町に溢れかえる不品行、不道徳、異教の教えなど、純粋な信仰を濁らすものが容赦無く教会の中に入り込み、教会の中は絶えず誘惑と戦いと脱線と混乱に晒されていた。パウロは手紙を書いて、そのような彼らを戒め、諭し、励ました。それがコリント人への手紙である。
本日の箇所には1節ごとに対比が見られる。外なる人:内なる人、衰える:新たにされる(16節)、一時の軽い苦難:重い永遠の栄光(17節)、見えるもの:見えないもの、一時的:永遠に続く(18節)。それぞれがキーワードである。
まず、見えるものとは何か。私たちの周りにあるもの、私たちの内に元来あるもの、さらには、私たち自身のことだとも言うことができる。これらはどれも限りがある。時間で、場所で、状況で変化する。全て一時的なものである。だが、そうした見えるものが苦難となり、私たちに押し寄せ、影響を与えようと働きかけてくる。苦難と言うほど大袈裟でなくても、私たちを取り巻き、束縛しようとしてくるものは皆そうである。私たちは、この世においては、絶えずこの苦難に晒されている(ヨハ16:33, 1ペテ4:12,13)。しかし、そうしたものによって影響を受けるのは私たちの外なる人である。私たちの肉体、心理的・精神的な部分である。私たちの外なる人は、様々なものに影響を受け、傷つき、弱り、衰えてしまう。
だが、私たちの内側には魂がある。この魂を救い、守り、助けてくださるのが神である。私たちの魂は、本来罪のために滅びが定まっていた。そのような私たちの魂を滅びから救うために、神は御子キリストを地上にお遣わしくださった。キリストは私たちと同じ人として生まれてくださり、罪は犯されなかったが、この地上で私たちと同じ苦難も弱さも味わってくださった(ヘブ4:15)。そして、十字架にかかり私たちの救いを完成してくださった。私たちはキリストの十字架を信じることで魂の救いをいただくことができる。この救いによって私たちの内に神を信じる信仰が始まった。これが内なる人である。
さらに、救われた後になお残る罪の根も、キリストの十字架に共につけて始末をつけ、内側にキリストが臨んでくださり、私たちの内なる人を新しくしてくださる。これが聖化である。そして、聖霊によって私たちは信仰を日々新しくされ続ける(コロ3:9-10, エペ3:16)。こうして、終わりの日に私たちを永遠に続く栄光の姿に変えてくださる(ピリ3:21)。栄化の望みである。このようにして、私たちは、キリストの救いをいただき、信仰を始めていただき、内に主に望んでいただき、さらに栄化の望みをいただき、押し寄せる苦難の中にあっても、影響を受けるのは外なる人だけだと断言することができる。これが、見えるものにではなく、見えないものに目を留めながら生きる生涯である。
私たちの目には様々なものが見えてくる。私たちの目を奪い、眩ませ、神から逸させるものが目につく。しかし、私たちは見えないものに目を留めていきたい。神を信じる信仰を固くし、神を見上げて進んでいきたい。