大いなる福音、大いなる務め
使徒の働き26:12-18
パウロは、ローマでも証しをしたいと熱望し、カイザルに上訴して、総督フェストゥスの前で裁判の席に立たされた。領主アグリッパの許可を得て弁明し始めた彼は、救いと召命の証しを語った(12-18節)。16-18節の彼への主の言葉から学ぶべきことが多い。
1.自分の足で立ちなさい。 それまでのパウロは、律法により自分の義に立っていたが(ピリ3:7)、キリストとの出会いによって全て失い、信仰義認を得た。業によらず信仰によると分かることこそ、自立することだ。自分の足で主に対する信仰に立つのだ。
2.自立の目的。 彼が自立させられたのは、主との出会いと、主が示そうとしている事を彼が証しするためだ。私たちが先に救われたのも、宣べ伝えるためだ。恵みを自分だけに留めてはならない。私たちにも、福音を宣べ伝える任務が与えられている。
3.宣ベ伝えられた福音の力。 それはまず、①魂の目を開く力。それまで見るべき御方が見えなかった目が、御言葉によって開眼させられる。②闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせる力。サタンの支配下で暗黒だった私たちの魂が、御子の支配下に移し変えられる(コロl:13)。③罪の赦しを得させる力。キリストの十字架を信じる信仰によって、赦罪と義認が与えられる。④聖なるものとされた人々に加わらせる力。義認の恵みだけでなく、聖潔の恵みも備えられている。十字架で己に死に、キリストの内住をいただいて聖なる魂とされ、御国を相続できる。
目を開き、闇から光へ帰らせ、赦罪を得させ、聖くする…福音にはこういう力がある。信じる者に働く神の力だ。この福音の力を知っていたから、パウロは全ユダヤ人と異邦人に悔い改めよと語った(19,20節)。認罪と悔い改めが救いの土台だ。
「悔い改めにふさわしい行い」(20節)とは、まず十字架信仰だ。悔い改めた魂が十字架を仰ぐことができる。そこに救いは完成しており、そこから確信ある歩みが始められる。悔い改めは人の側の行為で、神の側ではすでにキリストの十字架と復活の業がなされている(23節)。これにより罪の赦しと、永遠の命が与えられる。
キリストの上になされた十字架と復活の御業は、私の内にもなされる。自我が死んでキリストが生きてくださる。罪の赦しの恵みのみならず、聖潔の恵みまで与えるのが、全き福音だ。
パウロが天からの啓示(19節)として語ったこの福音を、総督フェストゥスは受け入れられず、パウロが単なる博学の徒としか映らない(24節)。確かにパウロは博学だったが、主を知る知識の価値のゆえに全てを捨てた(ピリ3:8)。世の知識、経験、律法の義によって立とうとする己れの力によってではなく、内なる主によって彼は福音を語ったのだ。
キリストの十字架は、片隅で起こった出来事ではなかった(26節)。イエスが十字架で死なれたとき、罪状書には、誰もが読めるように、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で「ユダヤ人の王」と書かれた。主は決して片隅で密かに死なれたのではない。だから領主も知らないとは言えないはずだった。
パウロは大胆にも、自分のようになってくれることを願うと言った(29節)。全ての人が救われてほしいというのが魂に対する彼の重荷だった。こんな私をも愛し、御子の血で贖い、ご自身のものにするという恵みを得させられたこの私のように、全ての人がなってほしい、と私たちも言いたい。
大いなる福音にあずかった私たちは、恵みを他の人にも伝えていきたい。魂への愛をもって遣わされたい。まず自分自身がこの福音にあずかり、そして大いなる任命をいただいて、この福音を証しする者になろう。証しは言葉によるだけに限らない。イエスに生き返らせられたラザロのように、その人の存在そのものが証しにもなる(ヨハ12:9)。