主の臨在が共に
出エジプト33:12-16
出エジプトをしたイスラエルの民には、約束の地カナンという明確な目的地があった(3節)。ところが、悪い知らせがもたらされた。主が一緒に行かないと言われるのだ。民が頑ななことが原因だった。
彼らは、初めは信仰をもって出エジプトした。小羊の血を信じる信仰によって贖い出された(12章)。紅海も神の方法で渡った。彼らは神の力を見せつけられた。
ところが、彼らはすぐに恵みを忘れた。肉が食べたいと(16:3)、また水が苦いと(17:3)不平を言った。贖いの恵みよりも、目先の肉欲が満たされないことで呟(つぶや)いたのだ。肉の歩みはいつもこれだ。しかし、憐み深い主は忍耐をされ、マナを与え、岩から水を出させられた。モーセは、不信仰で傲慢な民を愛し、憐れみ、忍耐し続け給うた神の真実を味わい知った。
シナイ山に登ったモーセは、神との親しい交わりのうちに、十戒が与えられた(20章)。律法は、民がカナンの地で神の民として生きるための規準だった。彼らは、律法を「すべて行います」と言って誓った(24:3,7)。ところが、その直後、神が最も忌み嫌われる偶像礼拝に走った(32:1-6)。贖われた恵みを全く忘れたのだ。神が小羊の血をもって贖い、荒野を忍耐して導き、ご自分の所有としようとして律法まで与えた民が、何たることか。
神の怒りは燃え、彼らを滅ぼし尽くそうとされた(32:9,10)。しかし、モーセの必死の執り成しで、神は思い直された(32:11-14、詩106:23)。神ご自身が一緒に上らないと言われるのは、こういういきさつがあったのだ。あまりに頑なな民を滅ぼさないための、神の愛の配慮なのだ。
しかし、民にとっては悪い知らせだった。そこでモーセは主の前に出た(12,13節)。神は、御使いを一緒に遣わすと約束されたのだが(2節)、それでは間に合わないのだ。神ご自身が伴ってくださらなければ、この強情な民を導けないのだ。モーセは必死で祈った。自分の面目を保つためではなく、民を愛しての祈りだ。
そこへ「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14節)と主の言葉が臨んだ。神が思いを変え、臨在の約束を与えられたのだ。モーセは、それでも尚主の前に立った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら…」と食い下がって祈った(15節)。これは彼が不信仰になったのではない。主の約束を安易には受け取らない、浅い所で立ち上がらないという彼の姿勢であり、主の確かな答えを得るまでの駄目押しの祈りだ。神はモーセに確答を与え(17節)、神の栄光を現された(22節)。臨在の約束のしるしだった。
神はいかに民を愛されたか。主は、恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れまれる(19節)。求めていく者に惜しみなく恵みを与えてくださるのだ。
民はこの後、カデシ・バルネアで決定的な不信仰の姿を露呈する(民13、14章)。偵察隊たちの不信仰の報告によって、民全体が不信仰になり、結局、荒野で屍(しかばね)をさらすことになった。それでも神は憐れみを与え、次世代の者たちをカナンの地へ導かれた。
神は我らをも愛してくださる。我らをも恵み、憐れもうとしてくださる。罪を認め、へりくだって真剣に主の前に出た魂に、救いの恵みを与え(1ヨハ1:7,9)、さらに内心の汚れ、己の醜さに気がつき、このままでは嫌だと思い、十字架を仰いだ魂に、内住のキリストを与えて、神の御心に常に喜んで従う、聖(きよ)き生涯を歩ませてくださる。
「わたしの臨在がともに行き…」との御声は、明確な贖いの恵みを得た魂に臨む。内住のキリストにより、臨在の主の確信を持って、キリストだけが与え得る平安の内に歩むことができる(ヨハ14:27)。これこそ私たちが他の民と区別される点だ(16節)。
不信仰になってはならない。サタンは現実を見せつけて、巧妙に近づく。臨在の主を仰いで進む者になりたい。