生ける神に仕える者
ヘブル9:11-28
本書には、古い契約と新しい契約の違いが述べられている。前者は律法であり、後者はキリストの十字架だ。前者には、礼拝する者の良心を全うできないという限界があった(9節)。それは、後者により新しい契約が立てられる時までの準備のものだった。
しかし、私たちに与えられようとする完全な救いのための大祭司が現れた(11節)。古い幕屋になくてならぬものは犠牲の血だったが(12,13)、それは繰り返しささげられたにもかかわらず、全うできないという意味で不完全だった。ところがキリストは、ご自分の血によって、ただ一度真の聖所に入られた(12節)。それは、十字架で贖いを完成されたことを意味する。そもそもいけにえの血は、罪を贖う力があったが(レビ17:11)、それはキリストの血の予表だった。
1.キリストの血は私たちの罪を赦す(22節)
血が流されて、人と物が贖われた。旧約では度々動物の血が流されたが、新約においては一度限りキリストの血が流された。旧約ではその贖いは不完全だったが、今やキリストによって完全な贖いが成し遂げられた。
罪の赦しが土台だ。これがはっきりしているクリスチャンは幸いだ。罪の赦しは、お情けによってではなく、法的な手続きが取られて与えられる(1ヨハ1:9)。義なる神は、罪を罰せずにはおかれない。しかし同時に愛なる神は、私たちが滅びるのを見るに忍びない。そこで神は御子を十字架につけられた。下されるべき罰は、私たちの上にではなく、御子の上に下された。神の義は貫かれ、同時に神の愛も全うされた。この正当な贖いのゆえに、私たちの赦罪と義認は動かされることはない。
2.キリストの血は私たちの汚れを潔める(14節)
「死んだ行い」とは、律法の儀式のことだが、私たちにとっては古き人のことだ。救われてもなお罪を犯し、神に逆らい、御心を傷つけ続けるという、また妬み深く、自己中心で、我意を押し通したいという、私たちに根深く住みつく内在の罪(ロマ7:15,17,20,24)がある。そのような自分の内側の汚れは、きっちり始末をつけられなければならない。始末できるところ、それが十字架だ(ガラ2:20)。
信仰によって十字架で古い自分に死ぬという体験を経た者が、信仰によって内にキリストを得る。小島伊助師は“キリストの四顕現”と語られた。キリストは過去において一度現れ(26節)、やがて未来において現れ(28節)、そして現在において神の前に現れておられる(24節)。あと一つは、私の内に現れておられる(ガラ1:16)。これがキリストの内住だ。
信仰によって主を内にお宿しする恵みを頂きたい。キリストの血は、私たちをそこまでする。こうして私たちは神に対して生きる者になる(ロマ6:11)。恵みによって生ける神に仕える者になる。喜びをもって主に従う者、礼拝する者、奉仕する者、執り成す者になるのだ。そして、神に喜ばれ、重んじられ、信頼される者になる(ヨハ12:26)。
自分の努力でそういう者になるのではない。キリストの血がそうさせるのだ。御子の血のみが永遠の贖いを全うさせる。なぜなら、傷なく染(しみ)なき小羊の如きキリストの尊い血(1ペテ1:19)だからだ。
血の力を信じよう、血潮を賛美しよう、血潮により頼もう。キリストの血への信頼は、罪とこの世とサタンに勝利させる。それが福音だ。荒野でサタンの誘惑に勝利され(マタ4:10)、十字架と復活で世に勝たれたイエス(ヨハ16:33)が、私たちの前に進まれる。私たちもイエスの血によって、罪とこの世とサタンに勝ち、生ける神にのみ仕える者にならせていただこう。