新しい契約
ヘブル8:6-13
契約はヘブ書全体を通じてキーワードの一つである。聖書における契約とは、神が人に示される御心によって結ばれる、神と人との関係のことである。
神は、罪を犯して滅んでしまう人を憐れみ、救いの道を用意された。これが初めの契約(7節)、律法である。この律法の中に、人を憐れみ、愛し、救ってくださる神の御心は十分に示されていた(申7:9、出19:5)。ところが、人はその罪の深さのために契約を守ることができなかった(9節)。神の契約には欠けあるものだった(8節)。そこで、神は新しい契約を備えられた。御子キリストの血による新しい契約である(6節、ルカ22:20)。キリストは十字架にかかり、血を流してくださった。この血によって私たちの救いが完成した。これが古い契約から新しい契約への転換点であった。
実は、古い契約が破棄され、新しい契約が与えられることは旧約で預言されていることだった(8-12節、エレ31:31-34)。特に注目したいのは10節だ。「思い」(エレミヤでは「ただ中」)は、私たちの意思や理性のこと、「心」は私たちの性質のことである。つまり、私たちの全人格、私たちの存在そのものに新しい契約を開いてくださる。これは信仰によることである。神は私たちの内に信仰を与え(ヘブ12:2)、その信仰によって私たちは新しい契約に入れていただくことができる(エペ2:8)。神との関係に入れていただき、救いをはっきりとスタートしていただく(ガラ3:22、26)。罪の赦しをいただき、義としていただく。契約には明確な契約開始日が定められる。救いも明確なスタートがあるはずである。こうして救われた者はやがて自己の真相に気づく。新しい契約という光はそのようなさらに深いところも照らす。ギリシャ語の契約という言葉には、“徹底して分けて置く”、“意思を持って始末する”、というニュアンスがある。私たちは、自らの肉の始末を徹底する(ガラ5:24)。そのように徹底した者に約束の御霊が臨んでくださり(ガラ3:14)、御霊の証印を押された者(エペ1:13)、御霊によって進んでいく者となる(ガラ5:25)。そして、神の御心に従うことのできる者となる(Ⅰテサ4:3)。
さらに、新しい契約の中に教会の姿を見たい。英語の“契約”という単語covenantには“一緒に来る”というニュアンスがあり、その語源は“集まる”という意味のラテン語である。新しい契約に預かった者たちは、神の前に礼拝をささげることを大切にする(ヘブ10:25)。そして、神に喜ばれる礼拝がどういうことなのかをわきまえる。それは、救いを感謝しつつ、神の御心に聞き従う姿勢で(ヘブ12:28)、御霊に働いていただいて、真理なるキリストを信じる信仰において一致した礼拝をささげていくことである(ヨハ4:23,24)。これこそが教会の姿である。
最後に、「その時代が来る」「そのとき」(8節)とある。かつて神は、ときを備えて律法を与え、ときを備えてキリストの十字架を成し遂げた。私たちにも神はときを備えておられる。それは、今である(ヘブ4:7、Ⅱコリ6:1,2)。今こそが私たちの内に新しい契約が開かれるときである。