神を知る
詩篇46:1-11
10節にあるように、「わたしこそ神であることを知れ」と、主は呼びかけ続けておられる。ノンクリスチャンに対しての呼びかけだろうか。それだけではない。教会に来ていても、クリスチャンであっても、この呼びかけに対して誠実に応えるべきである。
呼びかけに応える態度は次の3つにパターン化できる。①知りたくない(拒絶的)、②もう知っている(現状満足的)、③もっと知りたい(探究的)。①は、教会やクリスチャンに対して冷ややかな視線を送る人の心境かと思われる。私たちはこれらの人々を覚えて祈り、機会を捉えて証していきたい。
②は、もう知っているから大丈夫、今知っている範囲で十分、という心境である。だが、まだ知らない深い真理があって神がそれを教えたいと思っておられるのに、私たちのほうがそれに気がつかない、気がつこうとしないとすれば、どうだろうか。
逆に③は、積極的であり、深化と成長へとつながる。さらなる導きを求めて、身を乗り出していく、目を高く上げていく姿である。
では、一体“神を知る”とはどういうことなのか。こう言うことができる。①神と出会うこと、②自分の姿と向き合うこと、③神を知り続けること。
①神を知らないということは、神とまだ出会っていないということである。ヤコブは、旅の途中、不思議な夢の中で神と出会った(創28:10-19)。私たちはまず神との出会いを果たすべきである。
②神と出会った者は、必ず自分の姿と向き合う。罪がわかる、汚れがわかる、ということである。実は、私たちよりも先に神の方で私たちの全てを知ってくださっていた(詩139:1-6)。その神が私たちを導き教え、取り扱い、気がつかせてくださる。私たちはそれに気がついたなら、心を頑なにすることなく、神の前に出て悔い改めるべきである。ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯したことを神から指摘されたとき、即座にそれを認め、悔い改めた(2サム12:9-13)。こうして自分の罪を悔い改めた者に、神はキリスト・イエスの十字架と復活による救いを与えてくださる。そして、私たちに備えられた救いの道を私たちは歩み始めていく。
この救いの経験が明瞭かどうかで、神を知る者として歩むことができるか否かが決まってくる。救いの経験がないとか、救いの経験を蔑(ないがし)ろにしているというように、私たちの救いが不明瞭だと、神を知る者として歩むことはできない。こうして救われた者はやがて必ず自分の汚れと向き合うことになる。どこまでも自己本位、自己中心の本性である。汚れに突き当たった者は、その汚れを十字架の上で始末する。この始末のついた者の内にキリストが臨んでくださり、本当の意味で神を知る者として歩んでいくことができる(コロ2:3)。大切なことは、自分の姿と向き合うことだ。目を逸らさず、ごまかさず、心を頑なにしてはいけない(箴24:12)。
③神を知るとは、神を知り続けるということである。到達点や達成目標のようなものではなく、絶えず新しく、さらに深く、神を知っていく。どこかでふんぞりかえり、それ以上知ろうとしないのは、神を知る者の姿ではない。様々な体験を通して、様々な事象を通して、様々な人との関わりを通して、神は絶えず私たちに真理を教えてくださる。そうして私たちは神にあって成長し、強めていただく(コロ1:9,10)。私たちはいつも神に心を向け、神を知り続けていきたい。そして、神を知る者として歩んでいきたい。