私にあるものをあげよう
使徒3:1-10
イエスは十字架にかかって死なれ、復活され、昇天して弟子たちから離れられた。それから10日後に聖霊が降られた。それ以来、聖霊は初代教会に働かれ、すばらしい神の御業を現された。
その最初の御業が美しの門での出来事だ。生まれながら足の不自由な人の癒しが行われた。
ユダヤ人は一日に三度の祈りの時を持ったが、その祈りの時が、神が御業を行われる時となった。祈りなしに神は御業をなし給わない。
生まれながら足の不自由なその人は、社会から捨てられ、自分でも生きる目的を持たないまま、暗黒の人生を送っていた。歩くことも働くことも、礼拝することもできなかった。彼は神殿の入り口に置かれていたが、神殿の中には入れず、神に近づくことができなかった。すぐ近くにおられる神に一歩も近づけないのだ。これは罪を犯していた私たちの姿だ。イザヤ35章8,9節に、神に大胆に近づける贖われた者の姿があるが、彼はこれと逆の生涯を送っていたのだ。
そこへペテロとヨハネが通りかかった。彼は毎日ペテロたちを見ており、恵みを得る機会はあったのに求めなかった。神はいつも私たちを恵もうとされる。しかし、私たちが求めなければ何も起こらない。
彼が求めたのはただ金銀だけだった。その日一日を暮らすことができればよいという浅い求めに過ぎなかった。彼は、これまでずっとそういう生き方をしてきたのだ。神の目的は、私たちに全き贖いを与えることであるのに、私たちは、不信仰のためにわずかの恵みしか求めないのではないだろうか。
ペテロは「私たちを見なさい」(4節)と言った。“私たちに目を留めて離すな。視線を釘付けにせよ”という意味だ。彼に渇きが起こされた。彼は「何かもらえると期待して」(5節)彼らを見た。するとペテロは「金銀は私にはない…」(6節)と言った。神が与えたいと願われる恵みは、金銀のようなこの世の御利益ではなく、もっと素晴らしい救い、人の心を揺さぶり、目を開かせる救い、十字架の血と聖霊による全き救い、罪の赦しと聖潔(きよめ)の恵みだ。
彼はイエス・キリストの名によって癒された。自分で真っ直に歩む者になったのだ。私たちが肉に支配されたままの不確かな歩みを続けることを、神は喜ばれない。ナザレのイエスの名は、私たちを立ち上がらせ、自分の足で歩む者にする。イエスの名とは聖霊だ。聖霊は私たちを新しい歩みに導く。
聖霊が私たちを歩ませる歩みは、①愛のうちを歩く歩み(エペ5:1)。何ものにもまさって主を愛して歩む。②光の子どもらしく歩く歩み(エペ5:8)。世から聖別された者、神の光を反映する者として歩む。③賢い人のように歩く歩み(エペ5:15,16)。サタンに付け入る隙(すき)を与えないように歩む。
彼は歩み出しただけではなく、踊り出した。神への感謝と賛美をささげずにはおれなかった。聖霊の恵みをいただいたら、すべての事を感謝することができる(1テサロニケ5:16-18)。
民衆は驚いた。彼が全く変わってしまったからだ。真に救われたら、他の人が驚き怪しむほど人間が変わる。また、真に聖められたら、つまり内住のキリストを信じる信仰に生きるなら、周囲の人々がその変貌(へんぼう)ぶりを認める。
私たちを救い、聖める方は、私たちのために死んでよみがえられたイエス以外にない。私たちを立ち上がらせ、正しく歩ませるのは、十字架と復活の福音以外にない(4:12)。
「私にあるものをあげよう」と言いうる者になりたい。まず自らが信仰に生きる者となり、そして他にも恵みを与える者になりたい。滅びゆく魂に救い主を示し、キリストの十字架による全き救いの恵みを証ししていく者になりたい。
主のみわざを見させていただこう。ペンテコステ以来、今も注がれ続けている聖霊の恵みの中に生きる者としていただこう。