我らにイエスあり
ヘブル4:14-5:10
5月21日はキリスト昇天日だ。死よりよみがえられた主は、弟子たちの前で天に昇られた(マル16:19、ルカ24:50,51)。それは、信じる者たちのために神の前で執り成すため、またペンテコステの日に聖霊を降すためだった。
本書のテーマは“大祭司イエス・キリスト”だ。大祭司とは、旧約時代、民を代表して神に犠牲を献げて執り成す重要な務めを担う人で、アロンが初代大祭司だった。著者は、イエスがアロンよりもすぐれた大祭司だと述べる。その理由は何か。
1.もろもろの天を通られたから(4:14)
イエスは永遠の初めから神であられたが(ヨハ1:1)、一時的に肉体をとってこの世に来られた。イエスは十字架で死なれ、復活され、昇天され、神の右の座につかれた。十字架のどん底から天上の玉座につかれたのだ。
その主が我らのために神の前に出ていてくださる。十字架で贖いを完成された主が、私たちが救いを受け入れ、贖われた者として歩めるようにと、神の前で祈っていてくださるのだ。復活して一切の権威を授けられた主が、私たちのために執り成してくださる。これが大祭司の姿だ。
2.我らの弱さに同情できるから(4:15)。
イエスは人となられたからこそ、我らの弱さを知られた。主の最大の苦しみは十字架だった。捨てられるはずのない神の子が、人から捨てられただけでなく、父なる神からも捨てられた。その苦しみのほどは、イエスが父なる神といかに親密な関係にあったか知らなければ理解できない(ヨハ5:19,8:29,マタ3:⒖)。そのイエスが神から捨てられたのだ。それは、捨てられるべき罪人の私たちが捨てられず、赦され義とされ、神の子にされるためだ。
神との交わりが断ち切られることほどのどん底はない。そのどん底を味わわれた主は、私たちの弱さを思いやってくださる。悲しみ、痛み、悩み、苦しみの中を通ることが多い私たちを、主は知って憐れんでくださるのだ。
3.神によって立てられた大祭司だから(5:10)
メルキゼデク(6,10節)とは、創世記14章に登場するサレムの王で、いと高き神の祭司だった。彼は、戦いに勝って凱旋するアブラハムをパンとふどう酒で迎えた(創14:18)。これは、最後の晩餐で我らのためにご自分が流す契約の血を示されたキリストの姿を彷彿(ほうふつ)とさせる(マタ26:28)。「メルキゼデクの例に倣い」とは、キリストが神に立てられた最高の大祭司であることを言い表している。
主はご自身の血潮によって、我らに永遠の救い、全き贖いを与えてくださるお方だ(5:9)。聖(きよ)くありたいとは、救われた者の魂の叫びだ(マタ8:2)。私たちを聖くするのは、傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血であり(1ペテ1:19)、その血を信じる私たちの信仰だ。十字架において己に死に、よみがえりのキリストが自分の内に住んでいただくという信仰で生きる者となる。
主に内住していただいたら、私たちは従順な者になる。主は十字架の苦難によって従順を学ばれた(5:8)。従順は、意志を働かせて御言葉に従うことによって学びとるものだ。イエスは徹底的に御心に従うことによって、とくに十字架の死に至るまで従うことによって、従順を学ばれた。その主を内にお宿しすることによって、私たちも徹底して御心に従順な者になる。
キリスト内住の信仰に生きる者となって、どこでも、何でも、ただ御心にのみ従う者になりたい。キリストこそ、私たちをそのようにしてくださるお方、永遠の救いを与えるお方だ。
私たちにはこういう大祭司が与えられている。我らにイエスあり。 主のもとにこそ「折にかなった助け」(4:16)、癒し、慰め、励ましがある。この主を仰ぎ、大胆に、はばからず恵みの御座へ出て行こう。