我なり、恐るな
マタイ14:22-33
イエスは山の上でパンの奇跡をなさった(13-21節)、その直後、群衆を解散させられた。二つの目的があった。
1.ひとり山で祈るためだ。パンの奇跡により神の栄光が現された。群衆は感激し、イエスを王にしようとした(ヨハ6:15)。それはイエスへの信仰ではなく、へつらいだった。イエスはそれに乗せられて、得意そうに王にはなることはなかった。イエスは神の前にひとり出るために山に登られた。イエスの居場所は、いつも神の前だった。人の前で奉仕していても、誉められても、けなされても、いつも神の前におられた。
イエスは何を祈られたか。これから世の荒波の中に出て行くべき弟子たちが守られることを祈られたのだ。ご自分と父なる神との曇りのない信頼関係(ヨハ5:19、8:29)に立って、そのことを神に祈られたのだ。
2.弟子たちを訓練するためだ。イエスは彼らの信仰を訓練しようとされた。彼らだけで湖を渡らせる方法をもって、神を信じるとはどういうことかを教えようとされた。たとえ嵐の中でも、神を信じて進んでいくのが信仰だ。
しかし、実際は彼らに信仰なきことが明確になった。湖上を歩いて船に近づかれるイエスを、彼らは恐れて“幽霊だ”と思った。イエスがすぐに船に近づかれなかったのは、やはり彼らを訓練するためだったのだが、彼らは目先の困難に信仰の目が閉ざされ、イエスだと判別できなかった。けれどもイエスは嘆かず、叱らず、「しっかりしなさい。わたしだ…」と言われた(27節)。
「我なり」は「我在り」の意味で、神の御名前を表す(出3:14)。 天地を創造し、支配している神が共にいるではないか、と主は弟子たちに語りかけられたのだ。彼らはそれを聞いてそうだったと気づかせられたはずだ。
しかし、ペテロはまだ疑っている(28節)。彼は確証を求めて、波の上を歩いてイエスに近づくことを願い出、許された。ところが途中でイエスから目を逸らせ、溺れかけた。そんな彼を、イエスは「信仰の薄い者よ…」(31節)と嘆かれた。彼は、自分には信仰があると思っていたが、実はなかったことが暴露された。信仰が薄いどころか、全く無いのだ。すぐに目を逸らせて周囲を見てしまう。イエスから目を離してはいけない(ヘブ12:2)。イエスから目を離すのは傲慢だ。傲慢の塊のような自分の真相を知り、自分に対して絶望して十字架につけるならば、イエスが内に臨んでくださり、内から「しっかりしなさい。わたしだ…」と励ましてくださる(ガラ2:19,20)。
逆風は吹く。困難はある。しかし、イエスが内に在すゆえ、動かされず、恐れない(詩16:8、詩27:1、ロマ8:31)。常勝不敗だ。これは自信のあるなしではなく、イエスが内に在すとの信仰のゆえに、いつでもイエスを仰ぐことができる。信仰による確信だ。
弟子たちは、「まことに、あなたは神の子です」(33節)と言った。彼らのイエスに対する信仰告白だが、これは、我らに対する他の人の認識ともなる。つまり我らが内住のキリストをいただき、絶えずこの恵みに生きていれば、我らは神の子どもと認められ、キリストの香りを放つ主の証人になるのだ。
イエスは我らに臨在の主を表していく者になってほしいと願っておられる。内住のキリストの恵みを、全ての贖われた者に与えたいと願っておられる。渇きをもって真剣に求めよう。激しい嵐の中で、すぐに恐れ、動揺する者ではなく、どっしりと動かない平安を内に持った者になりたい。さらに、主の贖いの恵みを告げ知らせていく者になりたい。