神の所有とされる恵み
イザヤ43:1-13
本書、とくに40章以下には、主の恵みに満ちた、慰めの御言葉が多い。イスラエルは南北朝に分裂し、北王国はアッシリアにより紀元前722年に、南王国はバビロニアにより紀元前586年に滅亡した。南のユダ王国のエルサレム市民は70年間、バビロン捕囚となった。不信仰、背信の罪の報いだ。
惨めな捕囚生活の中で、彼らは罪を認め、悔い改めた。そういう彼らを神は決して見捨てず、回復の預言を与え、弱り果てた魂に励ましを与えられた。40章から慰めの御言葉が多いのは、回復・慰めのメッセージが始まっていくからだ。
その中でも本章には、贖いの恵みの素晴らしさが述べられている。ユダヤの民の総称として「ヤコブよ…」「イスラエルよ…」(1節)と呼びかけられているが、我らのことと考えてよい。我らは神によって、神のかたちに創造された(創1:27)。神と交わることができる存在として、つまり神の御言葉を聞き、御顔を拝し、応答できる者として造られたのだ。裸を恥ずかしいと思わない、つまり神の前に恥じることなく出られる者だった。
しかし罪を犯した。神の命令に従わず、木の実を食べた。神のかたちは破壊され、御前から隠れなければならない者になった。裸を恥と思い、そのままでは出られない者になった。
そんな我らを神は見捨てられなかった。御子キリストを送り(ヨハ3:16)、十字架にかけられた。キリストは「わが神、わが神…」と叫ばれた。捨てられるはずのない神の子が、父からさえも捨てられたのは、捨てられるべき罪人の我らが捨てられないためだった(2コリ5:21)。価値も資格もない我らは、ただ神の恵みにより(ロマ3:24)、十字架への信仰のゆえに救われる。
悔い改めと信仰を通らずに明確な救いはない。まず、救いの恵みをいただきたい。認罪-悔い改め-十字架信仰を曖昧(あいまい)にして、救いが不明確なクリスチャンになってはならない。
こうして神は、ひとたび神によって創造されたにもかかわらず、罪によって神のかたちが破壊された我らを、キリストの十字架によってもう一度創造し直された。我らをご自分の所有とするためだ。
しかし、救われただけでは、まだ神のものとなっていない。わがままで、自分が一番かわいく、従いますと言いつつ従わない者で、その時の調子によって上がったり下がったりという情けない者だ。魂のど底に住みついている自我、古き人、肉のためだ。そのままで神が満足されるはずがない。使徒パウロはその自分の醜い姿を直視し(ロマ7:15,17)、絶望の叫びを上げ(同24)、キリストの十字架を仰いだ(ガラ2:19,20)。
我らも、そこを通って、キリストが内に生きてくださるという信仰に立ちたい。この恵みを頂くとき、主から「汝は我ものなり」と言っていただき、主に所有された者になる。
神の所有とされた者は、①神に愛せられる者になる(4節、ヨハ14:21)。②神の証人として遣わされる(10節、使徒1:8)。③困難に負けない(2節、ロマ8:31,37)。そのような魂になりたい。我らが神の所有とされることは、誰よりも神が切望される。そのための十字架、血潮だった。神が実現してくださる(13節文語)。信じて渇望しよう。
終末の近いことがいよいよ痛感させられる今の時代にあって、恵みを確かに頂いて、備えをしたい。