みこころがなりますように
ルカ22:39-46
十字架前夜、イエスはいつもの祈りの場所であるゲッセマネの園へ行かれた。主は祈りを愛された。主は弟子たちに、誘惑に陥らないように祈るよう言われた。祈りをこよなく愛され、大切にされたイエスは、弟子たちに祈りを求められたのだ。悪魔の誘惑から守られる秘訣は祈りだ。
イエスは、少し前に、信仰が無くならないようにペテロのために祈られた(32節)が、ここではご自分のためだけに祈られた。十字架を前にして、神との真剣な取り引きが必要だったからだ。
主は「父よ、御旨ならば、この杯を我より取り去りたまえ」(42節文語)と祈られた。杯は神の怒りを指す(イザ51:17、エレ25:15)。神の怒りを受けるべき理由はイエスにはなかった。父なる神にとって主は「これはわたしの愛する子…」(マタ3:17、17:5)と信任された最愛の御子であり、主のほうも父に絶対的に信頼された(ヨハ5:19、8:29)。この親密な信頼関係にもかかわらず、それでも主は杯を受けなければならなかった。
イエスは十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(マタ27:46)。十字架の苦しみは、肉体的、精神的な苦痛以上に、絶対的に信頼していた神からも捨てられるという霊的な苦痛があった。この杯を主が避けたいと願われないはずがない。我らは結構神なしでやってきた。しかし主は違った。
主は「然れど我が意(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願う」(42節文語)と祈られた。何が何でも杯を受けたくない、というのではない。わが思い・願い・希望・計画を押し通すのではなく、神の御思い・御願い・御計画を求められた。御心への屈服だ。自分の意志を神の御旨に服させなさったのだ。
主はゲッセマネで勝利をとられた。すでに自分の願いを十字架に付け、祭壇に自分自身を献げきられた。勝利の秘訣は御心への全き服従だ。
己れを引きずっていては不勝利だ。まず己れがどういうものかを知らなければならない。どこまでも自分を可愛がり、自分の願いを押し通したいという自己中心の塊のような者だと認め、そういう己れを嫌だと思って、キリストの十字架において己に死に、御心に屈服するとき、勝利が与えられる。復活のキリストが内に臨まれるからだ。十字架と復活のキリストに信仰によって合わせられるのだ。御旨に徹底して従われた主が内住されれば、自ずと我らも従順になるはずだ。
パウロは「キリストが形造られるまで」(ガラ4:19)と言った。キリストのかたちとは、聖旨への従順にほかならない。キリストのもの(ロマ8:9)とは、十字架の死に至るまでの御心への徹底的な従順というキリストの思いを持つ者だ。
我らもゲッセマネの祈りを自分のいつもの祈りにしたい。口先だけではなく、本心から御心に従う者になりたい。キリストの内住の恵みによってそうなれる。主が為し給う。求めよう。