私たちのそむきの罪のために
イザヤ53:5
こんにちは。お元気でいらっしゃいますか。
5日から始まる一週間は、イエス・キリストが、私たちのために十字架の苦しみをお受けになったことを深く思う受難週です。
イエス様の受けられた苦しみは、それはもう言語を絶するものでした。イエス様は、まず人々に捨てられました。イスカリオテのユダに裏切られ、シモン・ペテロに三度否定されました。ほかの弟子たちも皆、蜘蛛の子を散らすように逃げました。人に裏切られたり、見捨てられたりした経験のある方は、イエス様の心中を察することがおできになるでしょう。
またイエス様は、肉体的にもひどい苦しみを味わわれました。平手でたたかれ、むち打たれ、ついに両手両足を十字架に釘づけられました。その痛みは、とても言葉では言い表せません。イエス様は神の御子だから、痛みなど感じなかったのではないか、と思われますか。いいえ、イエス様は、私たちと同じ人となってこの世に来られました。痛みも感じれば悲しみも覚える、私たちと変わらない人間だったのです。十字架につけられた時の痛みは、どれほどだったでしょうか。
しかし、イエス様の苦しみは、もっと深いものでした。イエス様は、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神様から捨てられるはずのない神の子が、神様から捨てられたのです。何のためでしょうか。私たちの罪のためです。
私たちは、神様の前に滅びゆく汚れた罪人です。しかし、愛なる神様は、私たちを救いたいと思われ、独り子キリストを私たちのもとに送ってくださいました。イエス様は罪のない神の御子でしたのに、罪人の私たちに代わって十字架についてくださいました。本当は罪人の私たちが神様から捨てられなければならなかったのに、私たちが捨てられなくてもよいように、捨てられるはずのないイエス様が、神様から捨てられてくださったのです。
旧約聖書のイザヤ書53章5節に、こうあります。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
私たちの罪とは、天地を創造され、私たちを愛していてくださるまことの神様に背いていた、背を向けて自分勝手な歩みを続けていたことです。その背きの罪のために、イエス様は十字架にかかって死なれたのです。自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架がこの自分のためだったと信じれば、誰でも、どんな罪でも赦され、救われます。あなたもぜひ、イエス様の十字架を信じて、罪からの救いをいただいてください。
教会では、毎週日曜日の午前10時半より礼拝を行っています。どなたでもおいでください。お待ちしています。
最後に、新型コロナウイルス感染拡大が一日も早く終息するようにお祈りいたします。