キリストにある大勝利
コロサイ2:6-15
この聖書の個所に“in Christ”という言葉が多く使われている(6,7,9,10,11,12節)。深い意味がある。
「キリストを受け入れた」(6節)とは、認罪-悔い改め-十字架信仰を経た魂のことで、そういう者が、キリストに結合し、キリストに根差して、キリストの中に歩むことができる。認罪-悔い改め-十字架信仰があいまいだと、そのように歩めない。土台がないから、不安定で「信仰が確立」できない。信仰の確立は、我流ではできない。昔、モーセが幕屋を山で示された型どおりに造ったように(出25:40)、信仰は教えられて初めて確立できる。
具体的に、キリストにあって歩むとはどういうことか。当時のコロサイ教会は、ギリシャ哲学の影響を受け、惑わされていた。知識偏重は警戒すべきだ。知識がキリストにとって替わってはならない。知識によって信仰を推しはかったりしてはならない。
キリストには、愛、聖さ、全知全能の力という神の徳が満ち満ちているから、我らはキリストにあって満ち足りることができる(9,10節)。10節は元訳で「爾曹(なんじら)かれに在りて全備する事を得なり」とある。キリストを知れば神の全てが分かる。しかも、我らもその充足にあずかっている、つまり、キリストにあって我らも神の徳で満ち溢れさせられているのだ。欠けだらけの我らが、全備しているとは!
秘訣はin Christだ。自分の力ではない、努力の結果や研鑽の賜物ではない。「キリストわが内にありて生くるなり」の恵みによる。「キリストの割礼」(11節)とある。肉にではなく、魂に刻み込まれる割礼、すなわち救いと聖潔だ。
我らは先には罪の中にあり(13節)、死んでいた者、滅びゆく者だった。しかし、御言の光に照らされて罪が分かり、悔い改め、十字架を信じて救われた。バプテスマの奥義は、自我の死とキリストの内住だった(12節)。救われ、洗礼を受けてクリスチャンになり、なお御言葉の前に出て行くと、醜い肉の姿が分かってくる。神に敵対し、己が腹を神とし、わがままで、愛のない己の真相に嫌気がさす。まさに我らを責め、さいなみ、暴き立て、不利に陥れる証書だ(14節)。
しかしキリストは、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。わが内の古き人、自我、肉は十字架でキリストと共に死んで、葬り去られた。そのように信仰をもって決算するとき、よみがえりのキリストが内に生き給う。もう自我に支配されていない。肉欲の奴隷ではない。キリストに支配されるキリストの僕だ。
我らがいつまでも自我に支配され、肉の慾に隷属し、敗北の生涯を続けるようにとサタンはもくろむが、キリストは十字架の贖いをもってサタンの武装を解除し、誇らしげに凱旋された(15節)。その行列にはサタンが捕虜になっている。圧倒的な勝利の行進だ。先頭はキリストであり、そのあとに我らが続く。いかにも愉快な光景ではないか。
主がそういう勝利を我らに与え給う。主が取られた勝利を、我らの勝利として授け給う。こうして勝利した我らに、主は全ての祝福で全備し給う。クリスチャンとはなんと輝かしい祝福が与えられたものか。
我らはやがて天の御国に凱旋する。しかし、それだけではない、この世で凱旋できるのだ。この光栄ある身分をわがものにさせていただこう。