主イエスのとりなし
ルカ22:24-34
イエスが十字架にかかられる前夜、最後の晩餐の席上で、主はパンとふどう酒の意味を教えられた。新しい契約のしるしが、聖餐式の意味だった(20節)。このことを教えたいと思われて、主は彼らとの最後の食事を切望されたのだ(15節)。
ところが、その直後、誰が偉いかということで、彼らの間に論争が起こった(24節)。主の心中はどうだっただろう。しかし主は叱らず、失望もせず、こんこんと異邦人の王たちと主のしもべたち、この世の原則と神の国の原則の相違を説き続けられた。
世から選び出された我らは、この世に生きながら、この世の法則にはよらない。エジプトの肉ではなく、荒野のマナで養われる者とされた(マタ4:4、1ペ1:23)。さらに、カナンに導き入れられるべき者とされた。乳ではなく、堅い食物で養われ、成長していく魂とされた(ヘブ5:13,14)。これが新契約に入れられた者だ。
彼らを諭された後、主はシモン・ペテロに名指しで語られた(31節)。主は、彼の信仰が震われることをご存じだった。サタンか願い出、神が許可されたのだ。こうしてペテロはサタンに打たれた。「牢であろうと、死であろうと…」(33節)と豪語した彼だったが、主を三度否定したのだ(34節)。。
その後の彼の歩みは惨めだった。自責の念と自己嫌悪にさいなまれた。信仰さえ危うくなった。主が復活された日も、ガリラヤ湖まで来ていながら、漁に戻ろうとした(ヨハ21:3)。人間の弱さ、肉の弱さだ。
しかし、主イエスの執り成しの祈りがあった(32節)。信仰とは、主を仰ぐことだ。主に信頼し、期待し、従おうとすることだ。サタンはこれを失わせようとしてくる。周囲の状況、自分の駄目さ、困難な事態にばかり目を向けさせようとしてくる。ペテロはこの信仰がなくなりそうになったのだ。
そんな彼のために、主は祈られた。憐れみの眼差し(61節)に始まり、主は祈り続けられた。そして「汝この者共に勝りて…」との取り扱いに至る(ヨハ21:15)。彼の信仰は見事に回復した。のちのペンテコステ以来、彼は死に至るまで忠実な主の証人になった。また初代教会の柱となり、手紙の執筆者となって、兄弟たちを力づける務めを果たした(32節b)。
主は、信仰の失せぬようにと、我らのために祈られる。頑なで、傲慢な我らのために、「シモン、シモン…」と名を呼んで祈られる。十字架の血を示し、裂かれた体を示して、砕かれて、救いと聖潔の全き贖いを得るようにと祈られるのだ。
まず救いの恵みをいただきたい。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、赦罪と義認をいただきたい。ここが曖昧(あいまい)なクリスチャンであってはならない(1列王18:21)。きっぱりとキリストにつく者にしていただこう。
さらに聖潔(きよめ)の恵みを求めていこう。きっぱりと主につく魂とは、実はこの恵みを頂いた者だ(ガラ5:24)。救われてもなお神に喜ばれない自己中心、己を愛してやまない肉を十字架につけ、キリストが内住される恵みをいただきたい。そして、キリストのように、いつでも、何でも、喜んで御心に従う者になりたい。
主は我らのために忍耐して祈られる。しかし、主の忍耐は無限ではない。不信仰、頑ななままでは、主もついに御言葉を語られなくなる(ヘブ12:25)。御言葉の飢饉が来るのだ(アモ8:11)。そうなる前に、渇いて求め、信仰をもっていただこう。「然れど我なんじの為にその信仰の失せぬように祈りたり」(文)という主の絞り出す祈りに耳を傾け、砕かれた魂で主を仰ごう。サタンに突け入る隙(すき)を与えず、主を信じる信仰に堅く立とう。