生きるにしても死ぬにしても
ピリピ1:20
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
ピリピ人への手紙シリーズ第6回は、1章20節です。御言葉を読みましょう。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」
パウロは、ローマの監獄に繋がれていました。犯罪を犯したのではありません。キリストの福音を宣べ伝えたからです。投獄され、自由が奪われたら、たいていは訴えた者を恨み、環境・状況を呪います。そして、自分はなんとかわいそうな者だろうと、自分を憐れみます。しかしパウロは、むしろこの逆境の中で喜んでいます。
それは、彼が何を願っていたかということによります。彼の願いは、何だったのでしょか。“早く釈放されて自由になりたい”とか、“自分をひどい目に合わせているヤツらに、神様の裁きが下るように”だったでしょうか。いいえ、パウロの最大の願いは、「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」だったのです。
彼は、このまま死んでもかまわないと思っていました。それは、“殉教の死を遂げたパウロ先生は、立派だった”と誉められたいからではありません。自分の身によって、キリストの御名が崇められるようになってほしいからです。“パウロ先生をあのように導かれたキリストは素晴らしい”と、みんながキリストを賛美するようになったら、自分は生きてもよし、死んでもよし、と本当に心から思っていたのです。
私たちは、自分の身に災難が降りかかってきたり、不都合なことが起こったりすると、なんとかそこから逃れたいと思って、じたばたすることがあります。そして、思うようにならないと、人のせいにしたり、環境を恨んだり、はては“神は私を見放されたか”なんて思います。しかし、どんなときも、真実な神様を信じ、私たちのために十字架の苦難を忍ばれたキリストに目をとめるなら、平安を得ることができます。なぜなら、私たちの救いのために御子を惜しみなくお与えくださった神様は、私たちに決して悪いようにはなさらないのですから。
生きるにしても死ぬにしても、この身によってキリストが崇められることを最大の願いとする者になりたいですね。
教会では、毎週日曜日、午前10時半から礼拝を行っています。賛美歌を歌い、牧師が語る聖書からのメッセージを聞きます。どなたでも集っていただける開かれた集会です。あなたのおいでを心からお待ちしています。