御言葉の力
マタイ13:1-9、18-23
イエスは、人々に多くのたとえを使って、神の国の話をされた。“種蒔きのたとえ”もその一つだ。ある人が種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。ある種は岩地に落ちた。すると、少し芽を出したが、太陽の熱で枯れてしまった。ある種はいばらの地に落ちた。すると、ある程度成長したが、いばらに邪魔されて成長が止まった。良い地に落ちた種は、十分に成長して、多くの実を結んだ。
このたとえは、神の御言葉を聞く我らのたましいがどうかを教えている。道ばたのような固いたましいでは御言葉は入らず、サタンが奪ってしまう。岩地のような薄っぺらなたましいでは、初めは喜んで御言葉を聞いていても、受け取り方が浅いため、困難や不都合なことが起こってくると聞かなくなり、御言葉がその人のものとならない。茨の地のようなたましいでは、この世のものに心を奪われて、御言葉に従うことをやめ、実を結ばなくなる。しかし、よく耕された畑のような柔らかいたましいなら、御言葉をしっかり受けとめ、素直に信じ、へりくだった心で従っていこうとするため、豊かに実を結ぶ。
御言葉が実を結ぶとは、御言葉に示されたイエスの十字架による救いがその人のものになり、喜びと平安が与えられ、いつも神を賛美しながら、御心に従っていく生活を送るということだ。
御言葉には力がある。どういう力だろうか。
(1)我らの内を照らし、罪を明らかにする力がある(ヘブ4:12)。御言葉の光に照らされて、初めて自分の罪がわかる。謙虚で砕かれた心で御言葉を聞くなら、御言葉の光は必ずたましいの内を照らす(詩51:17)。
(2)我らのたましいを救う力がある(ヤコ1:21a)。自分の罪がわかったら、悔い改め、イエスの十字架を信じる。そうするなら、御言葉の約束のとおり、すべての罪が赦され、我らは救われる。さらに、御言葉に従い続けていくなら、自己中心の汚れが示され、信仰によって己に死んで、信仰によってキリスト内住の恵みをいただくことができる。そして、信仰によって生きる者となる。これが全き救いだ。
(3)我らの歩みを守る力がある(詩119:9)。御言葉の光に従って歩むなら、道を踏みはずすことなく、神様の御心に沿って真っすぐに歩んでいくことができる(詩119:105)。たとえ逸れそうになっても、御言葉の光によって軌道修正される。
御言葉は神の力だ。御言葉を柔らかい、素直なたましいで聞き続けていこう。御言葉が語られている所を選び取り、戦い取っていこう。そういうたましいに神の祝福は豊かに注がれる。