礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.01.26

深みに漕ぎ出せ

ルカ5:1-11

シモン・ペテロは、夜を徹して労苦したのに収穫のない時もある貧しい漁師だった。彼の生涯を決定するイエスとの出会いは、そんな貧しさの中で起こった。彼は虚しく空の網を引き上げ、破れを修理していた。そんな彼に、イエスは舟を貸して欲しいと頼まれ、彼は舟を漕ぎ出した。彼はイエスに最も近い位置にいた。

イエスの説教に熱心に耳を傾ける群衆とは違い、最も近い所におりながら、ペテロの魂には主のメッセージは入って来なかった。たぶん明日の生活のこと、家族のことを考えていたのだろう。

イエスは彼に「深みに漕ぎ出し…」(4節)と言われた。彼は、イエスと少なくとも二度会っており(ヨハ1:41,42、ルカ4:38,39)、主にある程度の敬意は払っていたが、漁のことには素人のはずの主に言われて、反発心が働いた。しかし、彼は「でも、おことばですので…」(5節)と言って従った。これが彼の素直なところだった。素直に従う魂に祝福が与えられる。渋々でも、半信半疑でも、とにかく彼は従った。その結果は、今まで経験したことのない大漁だった。

けれども、ペテロは喜べなかった。魚の山を前にして、彼はイエスの足もとにひざまずき、主に離れていただくよう願った(8節)。深刻な罪の告白をしたのだ。彼は、この大漁を見て、イエスが神の子と知り、自分の姿がわかったのだ。主の御業を見て、主を信じなかった罪が明白になり、自分の罪深さに恐れおののいたのだ。

そんな彼に、イエスは「恐れることはない…」(10節)と言われた。何故か? イエスが赦してくださったからだ。

イエスは、ご自身の十字架の血潮でどんな罪をも赦してくださる。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らの身代わりだった。神から捨てられるはずのない神の子が、神から捨てられた(マタ27:46)のは、捨てられるべき罪人の我らが、捨てられず、罪の赦しをいただくためだったのだ。

イエスはペテロに「なんじ今より後、人を漁らん」(10節文)と言われた。自分の生活のために働く者から、神のために働く者に変えなさったのだ。罪を赦した上で、ご自分の働きのために用いようとされたのだ。

彼は一切を捨てて従った。人生の大転換だった。彼にはもう恐れはなかった。自分のような者を愛し、罪を赦し給うた御方に従えば、心配はなかった。

「懼(おそ)るな」(10節文語訳)と主は我らにもお声をおかけになる。我らはどれだけ自分の罪に恐れおののいているか。救われてもなお神に逆らう己の姿に、震えたことがあるか。開き直りや自己正当化はないか。あるとするなら、自分が一番かわいいからだ。そういう己に震えおののくべきだ。恐れ惑うべきだ。恐れる魂は主の前に引き出される。そこで主は「懼るな」とお声をおかけになる。主は、十字架の贖いをもって、罪の赦しのみか、神に逆らう一切の汚れからの潔めを与えてくださる。神に喜ばれない自我がキリストと共に死んで、よみがえりのキリストが内住されるという恵みに生きる者にしてくださる。

網を下ろしても収穫がないような、真の満足や喜び、平安や感謝がない生き方を続けていてはならない。虚しいものを拠り所としていると、何のために生きているのかわからなくなる。主は、深みに漕ぎ出せと招かれる。

十字架の主を信じ、御言葉に従って信仰の深みへ乗り出そう。全き救いをいただく時、主のみ思いを知る者になる。主のみ思いは、すべての者が救われることだ(1テモ2:4、2ペテ3:9)。この主の御心を知り、主への愛に押し出されて、人を漁る働きに加えていただこう。