神を見る者
マタイ5:8(1)
こんにちは、お元気でいらっしゃいますか。
イエス様が山の上で弟子たちに語られた、いわゆる“山上の説教”の中で、こういう言葉があります。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」マタイの福音書5章8節の御言葉です。短いながらも、深く考えさせられる御言葉です。
まず、「神を見る」とあります。神様を見ることができるのでしょうか。天地を創造されたまことの神様は、霊なるお方ですから、肉の目で見ることはできません。見えないものを信じることは不安なのでしょう。人間は、様々な物をかたどって“神”として崇めてきました。しかし、それらは本当の神ではありませんから、何の頼りにもなりません。
けれども、イエス様は、「神を見る」と言われました。それは、肉の目でではなく、霊の目で神を見るのです。まことの神様は、確かにおられます。しかも、遠い所にではなく、私たちのすぐ近くにおられます。そして、私たちの祈りを聞き、私たちを救い、助け、私たちの必要を満たしてくださるお方です。この神様を、魂の目で見ることができる、つまり神様を親しく礼拝することができるのです。
私たち人間は、もともと神様の手によって、神のかたちに造られました。それは、神様との自由な、親しい交わりの中を生きる者として造られたということです。はじめの人間アダムとエバは、いつも神様の御顔を見、神様の御声を聞き、神様と親しく交わりを持ちながら生きていたはずです。ところが、彼らは、蛇の姿をとったサタンにそそのかされて、“あの木からだけは取って食べてはならない”と神様から言われた木の実を食べました。彼らは神様に背いて罪を犯したのです。
それ以来、人間は神様から離れ、神抜きで、自分勝手に生きる者になってしまいました。そして、神様を見ることができない者になってしまったのです。これが私たち人間の姿です。
そのような私たちを、それでも神様は愛してくださり、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。イエス様は何の罪もないお方だったのに、十字架にかかって死なれました。それは、罪を犯して神様から離れ、滅びるばかりになった私たちの身代わりでした。神様は、私たちを罪と滅びから救うために、御子イエス様を十字架におかけになったのです。
この神様の愛を知って、自分の罪を悔い改め、イエス様が私のために十字架で死なれたと信じるなら、私たちは、全ての罪が赦され、神様を魂の目で見ることができる者になります。そして、神様の御心がわかり、神様の豊かな恵みをいただきながら、歩むことができます。あなたも神を見る者になりたいと思われませんか。
是非一度、教会においでください。あなたを心から歓迎いたします。