時が満ちて
ガラテヤ4:1-7
今からおよそ2010年前のキリストのご降誕は、偶然ではなく、神の定められた時だった(4節)。
1.キリストは遣わされた御方だった
主は自分で来られたのではなく、父なる神の御心に従って、神から遣わされて、罪に満ちたこの世に来られた。
主は「律法の下にある者として」来られた。傲慢、高慢、妬みなどが渦巻いていて、その罪のために律法を守れず、律法の呪いの下にある私たちの所に、主は来られたのだ。律法の下にある私たちを贖い出すためだ(5節)。主は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)と証しされて来られた。
そして、私たちを神の子にしてくださった(6節、ヨハ1:12)。生まれながら御怒りを受けるべき子、滅びの子が、神の子にされたのだ。悔い改めと十字架を信じる信仰によって、赦罪-義認-神との和解-新生の救いが与えられたのだ。ただ神の恵みによる救いだ(ロマ3:24)。
ところが、現実的には神の子として歩んでいないことに気がつく。妬み深く、不平・不満を噴出させ、愛がなく、自己中心だ。神の子にはいつも喜びと感謝と平安があるはずなのに(1テサ5:16-18)、実際はそれが無いのは、自我のため、肉の性質のためだ。
しかし、神は完全な贖いを成し遂げられた。救われてもなお神に喜ばれない古き人を十字架に付け、キリスト内住の恵みを与え給う。この恵みで生きるときに、私たちは初めて、神の子の歩みをする者になる。「これはわたしの愛する子…」と神から証ししていただける者になる。キリストの内にいましたのと同じ御霊を宿す者になる。朽ちることも汚れることも消えて行くこともない天の資産を相続する者、キリストと共同の相続人(ロマ8:14-17)にされるのだ。
キリストの再臨の時、私たちは主と同じ栄光の姿に変えられる。キリストと共に神の栄光の御国を嗣ぐ者になるのだ。これが義認・聖化・栄化の全き贖いだ。この贖いを与えるために、キリストは神のもとからこの世に来られたのだ。
2.女から生まれられた
キリストは女性から生まれられた。神と等しいお方が、私たちと全く同じ姿となって、つまり神が人となってこの世に来られたのだ。私たちを贖うためにはこれしかなかったのだ。
主は処女マリヤより生まれられた。それは神の大能が現されるためだった。神にとって不可能なことは一つもないことが証明されたのだ(ルカ1:37)。こんな者が義とされ、聖とされ、栄光から栄光へと変えられるとは、神の大能以外の何ものでもない。
3.神の時の満期だった
キリストが降誕されたのは、社会的環境が整備された時だった。“ローマの平和”と言われたほど安泰であり、道路が整備されており、ギリシャ語が普及していた。このように、福音が広まるためには最適の時だった。神は最適の時に、御子を世に遣わされたのだ。
私たちはいつ主を迎えるのだろうか。今だ。今が最適の時なのだ。今は恵みの時、今は救いの日だ(2コリ6:2)。
「時が満ちて」今、時は満ちている。神の時は熟している。全き贖いをいただく好機だ。逃してはならない。無関心でいてはならない。先に延ばしてはならない。砕かれた魂で、低い心で、今、主の前に出ていこう。