信仰のチャレンジに応えて
ヨハネ11:17-45
神が我らに求め給うものは信仰、神が成し給うと信じる信仰だ。イエスがマルタに要求された信仰は、不可能を可能にする神への信仰だった。人間的には絶望であっても、成し給う神を信じる信仰だ。
ベタニヤのラザロは、重病で危篤だった。イエスに知らせが届けられたが、主は「この病気は死で終わるだけのものではなく」と言われ、「神の栄光のためのものです…」(4節)と言われた。主がベタニヤヘ行かれたのは、ラザロの死後4日目だった。それは主が冷淡なのでも怠慢なのでもなく、ただ神の栄光が現されるためだった。
イエスは墓の前で涙を流された(35節)。その涙は、①親愛なる友の死への隠さぬ追悼の涙、②肉親の死を悼む人々への深い同情の涙、③死に定められた罪人への憐れみの涙、④人間を死に縛り付けるサタンヘの激しい怒りの涙だった。
イエスは、墓の入り口の石を取りのけるよう命じられた。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう…」と言った。当然の反論だ。誰が見ても正論だ。しかし主は、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と…」(40節)と言われた。常識から逸脱しているとも取れるし、盲信的とも取れる言葉だ。しかしこれが信仰の言葉だった。
主は、「わたしは、よみがえりです。いのちです…」(25,26節)と言われ、マルタに信じるかと尋ねられたとき、彼女は「はい。主よ」と答えた(27節 口語訳では「主よ、信じます」)。しかし、それは頭だけの信仰だった。いざ信仰を働かさなければならない場面で、働かすことが出来ない。人間的な常識だけが働き、無理だ、出来ない、不可能だ…と判断してしまう。
神の求め給うは、この世的な常識ではない、信仰だ。自分にはできないが、神にはできると信じる信仰だ。非常識なのではない、超常識だ。人間的には不可能で絶望だが、全能の神には可能だと信じる信仰こそ、神は喜ばれる(ロマ4:17,18)。
イエスがラザロを生き返らせられたのは、マルタたちが、お言葉ですから…と従って石を取りのけたからだ(41節)。嫌々、渋々、半信半疑ではなく、信じて従ったからだ。ラザロは生き返り、多くの人々がイエスを信じ、神の栄光が現された(45節)。
神は、我ら一人一人の魂に、また教会に、そして家庭や職場や地域に栄光を現したいと願い給う。魂の救いと聖潔、教会の成長、家族の救い、地域のリバイバルを起こしたいと願い給う。我らはそのために祈るが、どれだけ信じて祈るだろうか。
神はみわざを行いたいと願われるのに、我らが不信仰なら行うことができない。不信仰とは神を信じないことだ。これがどれほど神を悲しませることか。
神が最も喜ばれるのは、我らの功績や手の業ではなく、主がなし給うと信じる信仰だ(ヘブ11:6)。信じるなら神の栄光を見る。信じないから栄光を見られない。単純明快だが厳粛な事実だ。
神の栄光を見せていただきたい。もっと主を信じよう。信じると言ったら徹底的に信じることだ。「このことを信じますか。」(26節)との鋭い問いは、我らに向けられている。「主よ、信じます」と答えたい。
我らのために御子をも惜しまずに与え給うた神を、我らの救いを十字架上で成し遂げ給うた神の子イエスを、我らの救いと聖潔の全き贖いを完成し給うた主を、わが主と信じ、信頼しよう。